永禄11年(1568年)9月に上洛し、当時の政治に深く関わった織田信長。
今でも、京都には、織田信長に関係する史跡が残っています。
そこで、今回は、京都にある織田信長に関係する史跡をいくつか紹介します。
粟田口
京都市東山区の三条通と神宮道の交差点付近に京の七口の一つの粟田口を示す石碑があります。
粟田口は、東海道の京都の出入口で、永禄11年9月に織田信長は正親町天皇のお召しに応じて兵を率いて上洛し、皇居の修復や京都の街の復興に力を注ぎました。
その上洛の際、天皇の命を受けた立入宗継(たていりむねつぐ)が、信長を粟田口で迎えています。
また、信長はこの上洛で足利義昭を奉じ、同年10月に義昭を室町幕府将軍に就けることに成功しました。
東福寺
織田信長が最初に上洛した時に布陣したのが、東山区の紅葉で有名な東福寺でした。
信長が東福寺に布陣した時、足利義昭は清水寺を宿所としました。
その頃、京都を実質的に支配していたのは三好三人衆で、信長はその居城の勝竜寺城を攻略しています。
妙覚寺
信長が京都での滞在に宿所とした妙覚寺は、最も利用回数が多かったお寺です。
その回数は、20回の上洛で18回ですから、京都の信長の拠点は、妙覚寺だったと言っても良いでしょう。
現在の妙覚寺は、上京区の西陣にありますが、信長の時代はもっと南の二条衣棚にありました。
今の二条城の近くですね。
信長の正室であった濃姫は斎藤道三の娘ですが、斎藤道三は、かつて妙覚寺の僧侶でした。
信長が妙覚寺を宿所としたのは、斎藤道三との縁と関係があると考えられています。
本圀寺跡
信長とともに上洛した足利義昭は、その後、現在の西本願寺の北にあった本国寺を宿所としました。
本国寺は、江戸時代に本圀寺と改称し、昭和に山科区に移転しています。
かつての本圀寺の地には、その跡地を示す大きな石碑が立っています。
永禄12年1月。
信長が美濃に帰国している間、三好三人衆が、本国寺を攻撃する本国寺の変が起こりました。
この事件を知った信長は、わずか数日で美濃から京都に駆け付けています。
本能寺跡
天正10年(1582年)6月2日に明智光秀が信長を討った本能寺の変が起こりました。
現在の本能寺は、中京区の寺町通沿いにありますが、事件当時の本能寺は、もっと西の堀川通の近くにありました。
事件現場には、本能寺跡を示す石碑が置かれています。
阿弥陀寺
本能寺の変が起こった時、信長と生前に親交があった清玉上人が、信長やその家臣たちを荼毘(だび)に付し、上京区の阿弥陀寺に埋葬したと伝えられています。
阿弥陀寺の墓地には、織田信長と嫡男の信忠らのお墓があります。
毎年6月2日は、信長忌が行われます。
本能寺
信長のお墓は、本能寺にもあります。
本能寺の信長のお墓は、彼の三男の信孝が建立したものです。
総見院
北区の大徳寺にある総見院にも信長のお墓があります。
信長の死から1年後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、北区の大徳寺で葬儀を行いました。
秀吉が信長の菩提寺として建立したのが、総見院です。
総見院の信長のお墓は、朝廷が正式に認めたものです。
織田信長は、京都に大きな影響を与えた人物ですから、今も彼の史跡が多く残っているのでしょう。
京都の観光の際、織田信長の史跡巡りをするのも良いですね。