阿弥陀寺の織田信長と信忠父子の墓

京都市上京区の寺町通に建つ阿弥陀寺。

ここは、歴史ファンの方なら、ご存知かもしれませんが、織田信長と嫡男の信忠のお墓があるお寺です。

織田信長は、天正10年(1582年)6月2日に家臣の明智光秀に宿泊していた本能寺を襲撃され、天下統一を目前にしてこの世を去りました。

燃え盛る本能寺の中で自刃した織田信長の遺体は、その後、見つからなかったと伝えられていますね。

清玉上人によって埋葬された本能寺の変の死者

阿弥陀寺の最寄り駅は、京阪電車の出町柳駅または地下鉄今出川駅です。

出町柳駅からだと北西に10分、今出川駅からだと東に10分程度歩くと、阿弥陀寺に到着します。

阿弥陀寺

阿弥陀寺

阿弥陀寺には、何度か訪れたことがあるのですが、門が閉まっていることが多く、境内に入るのを遠慮していました。

でも、ある時、門が開いていて、中に入れるようになっていたので、この機会に織田信長のお墓を見ておこうとお参りをしました。

阿弥陀寺の墓地は、本堂の裏側にあります。

墓地という場所だけに織田信長のお墓を見に行くときは、騒ぐことのないように静かにしましょう。

下の写真に写っているのが、阿弥陀寺にある「織田信長信忠討死衆墓所」です。

織田信長信忠討死衆墓所

織田信長信忠討死衆墓所

本能寺の変では、織田信長だけでなく、嫡男の信忠も二条城で自害しています。

また、本能寺では、信長とともに森蘭丸も明智軍と戦い討ち死にしていますね。

阿弥陀寺の墓地に埋葬されているのは、本能寺の変で亡くなった織田の家臣たちです。

埋葬したのは、阿弥陀寺の開山の清玉上人です。

清玉上人は、大津坂本に阿弥陀寺を創建しましたが、その後、織田信長の帰依を受けて、京都の上立売大宮東に移転しました。

信長というと、比叡山の焼き討ちや石山本願寺との抗争など、宗教を弾圧したことで有名ですが、清玉上人に帰依したということは、意外と宗教に対して寛容な面もあったのでしょうね。

清玉上人は、本能寺の変の後、本能寺やその他の場所に駆けつけ、織田家の家臣100名以上の遺骸を集めて、蓮台野(れんだいの)で荼毘に付した後、墓地に埋葬したと言われています。

また、本能寺が焼けたことから、信長やその家臣たちの遺骸の灰を拾い集めて、埋葬したとも伝えられています。

遺体が完全に灰になっていたのなら、どれが信長かわからなかったでしょうが、そこにあった遺体の灰のどれかは、信長のものだったと推測できます。

葬られている100余名の中には、もしかすると明智方の死者も含まれていたかもしれませんね。

阿弥陀寺が現在地に移転したのは、天正15年で、信長の死後、天下統一を引き継いだ豊臣秀吉が、京都の町並みを改造した時のことです。

墓地には、開山の清玉上人のお墓もあります。

清玉上人の墓所

清玉上人の墓所

清玉上人が、本能寺の変後、信長父子と家臣たちの遺骸を集めたことは、あまり有名ではありません。

でも、これは、歴史的に重要なことなのでしょうね。

なお、阿弥陀寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。