伏見の会津藩駐屯地跡と土佐藩邸跡

京都市伏見区は、幕末の歴史の舞台によく登場する地域です。

寺田屋事件坂本竜馬が幕府の役人に捕えられそうになったのも、伏見ですね。

幕末に伏見で起こった最も大きな事件と言えば、鳥羽伏見の戦いではないでしょうか。

幕府の主力となった会津藩は、この戦いで伏見御堂(ふしみみどう)を駐屯地とし、その近くには、新政府につくか幕府につくか立場が明らかでなかった土佐藩の伏見藩邸もありました。

会津藩駐屯地跡

京阪電車の伏見桃山駅を降りて、西に10分ほど歩くと、伏見御堂の山門が建っています。

伏見御堂

伏見御堂

伏見御堂は、東本願寺12世法主の教如が、慶長年間(1596-1615年)に創建したお寺です。

寺域は、徳川家康から寄進されたもので、本堂も家康の居城の向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられています。

残念ながら、本堂は、平成2年(1990年)に老朽化のため取り壊され、現在は、山門と鐘楼が残っているだけとなっています。

慶応4年(1868年)1月2日に会津藩の先鋒隊約200名が、伏見御堂を宿陣としました。

徳川家と縁のあるお寺ですから、会津藩は、ここを駐屯地としたのでしょうね。

会津藩駐屯地跡の石碑

会津藩駐屯地跡の石碑

鳥羽伏見の戦いの時、会津藩士たちは、本堂の畳を楯に銃撃戦を行ったと伝えられています。

そのため、建物は大きな損害を受け、明治18年(1885年)に建て替えられましたが、上記のように近年、取り壊されました。

伏見土佐藩邸跡

鳥羽伏見の戦いは、翌日3日に薩摩藩の発砲とともに始まります。

この戦いは、薩摩・長州藩と会津・桑名藩の私闘であるという考えから、戦いに参加しないように藩士たちに命じていたのが、土佐藩の山内容堂でした。

山内家は、徳川家に恩があることから、幕府と敵対するつもりはなかったのですが、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こった時には薩摩藩に味方するように藩士たちに命じていたため、その一部は、薩摩藩とともに戦いました。

鳥羽伏見の戦いは、薩摩・長州藩の勝利となったため、土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛されました。

伏見の土佐藩邸は、伏見御堂から南に少し歩いたあたりにありました。

現在は、それを示す石碑が酒蔵の隅にひっそりと立っています。

伏見土佐藩亭跡の石碑

伏見土佐藩亭跡の石碑

会津藩士たちが、畳を楯に銃撃戦をした相手には、薩摩藩兵だけでなく、ここ伏見土佐藩邸にいた土佐藩士たちも混ざっていたかもしれません。

酒蔵が建ち並んでいて、風情のある伏見の町を散策していると、幕末の史跡をよく見つけます。

伏見は、江戸時代の景観が残っている場所が多いので、現代人も、幕末の志士たちと同じ景色を見ているのかもしれませんね。

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