幕末一覧

京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。

鳥羽伏見の戦いで野戦病院になった長円寺

慶応4年(1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは、薩長を中心とする新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は混乱し潰走することになりました。 会津藩や新撰組などの旧幕府軍は、南に退き、淀城に入って抗戦することを決定しましたが、淀藩が旧幕府軍の入城を拒んだため、八幡市の男山や橋本まで撤退することにしました。 そして、鳥羽伏見と淀で新政府軍に敗れた旧幕府軍の負傷者は、淀の長円寺に運ばれ治療を受けました。

即宗院の薩摩藩士東征戦亡之碑

慶応4年(1868年)正月3日に起こった鳥羽伏見の戦いは、明治新政府軍と旧幕府軍とが1年半に渡り戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりでした。 戦場になったのは、その名のとおり京都の鳥羽と伏見です。 薩摩藩と長州藩を主体とする新政府軍は旧幕府軍よりも兵力は少なかったものの、最新の武器を装備していたことで、この戦いに勝利しました。 鳥羽伏見の戦いには薩摩藩から西郷隆盛も参戦しています。 彼は、東山の即宗院に陣を構え、裏山に大砲を並べて旧幕府軍に向かって砲撃し、鳥羽伏見の戦いの勝利に貢献しました。

京都霊山護国神社の龍馬祭・2017年

慶応3年(1867年)11月15日。 この日は、坂本竜馬と中岡慎太郎が河原町の近江屋で命を落とした日です。 2人の遺体は東山の墓地に埋葬され、今は京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の境内の一部となっています。 毎年2人の命日の11月15日には、京都霊山護国神社で龍馬祭が催されます。 2017年は、近江屋事件から150年目の年ということもあり、私も龍馬祭を見に行ってきました。

二条城の北にあった京都所司代上屋敷

関ヶ原の戦い後、徳川家によって京都所司代が設置されました。 京都所司代は、江戸幕府が皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取締り、近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国の大名の動静監視などの強い権限が与えられており、老中に次ぐ最重要役職です。 その京都所司代の上屋敷は、現在の二条城の北側にありました。

寺田屋で襲撃を受けた坂本竜馬が避難した材木小屋跡の石碑

酒蔵がたくさん立ち並んでいることで有名な京都市伏見区。 歴史的には、幕末に様々な事件が起こった地として知られていますね。 寺田屋事件、鳥羽伏見の戦いなどは、明治維新に大きな影響を与えています。 また、伏見の寺田屋は、寺田屋事件の他に坂本竜馬がよく宿泊した船宿としても有名です。

新撰組と土佐藩士が乱闘になった三条制札事件

慶長2年(1866年)9月12日。 新撰組と土佐藩士が三条大橋で乱闘する事件が起こりました。 事の発端となったのは、8月29日の夜に三条大橋に立てられた制札が墨汁で落書きされたことで、その後も何度も引き抜かれたりするいたずらが絶えませんでした。 町奉行は、犯人を召し取ろうとしましたが逃げられるばかりで、新撰組に犯人の捕縛を依頼することにしました。

東福寺の維新戦役忠魂碑

慶応4年(1868年)正月3日に京都で鳥羽伏見の戦いが起こりました。 鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩及び長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間の戦いで、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の幕開けとなりました。 京都には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいろんなところにあり、京都市東山区の東福寺にも維新戦役忠魂碑が立っています。