「幕末」一覧

淀千両松にある戊辰役東軍戦死者埋骨地の慰霊碑

慶応4年(1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が、旧幕府軍を火力で圧倒します。 1月4日には、新政府軍が錦の御旗を掲げ、旧幕府軍を構成する会津藩や新撰組は、伏見の南西に位置する淀まで撤退。 そして、翌5日には、淀の千両松で新政府軍と旧幕府軍が再び戦闘を繰り広げ、当地は鳥羽伏見の戦いにおける激戦地となりました。 現在、千両松には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた慰霊碑が立っています。

かつての宇治川に架かっていた宇治小橋

京都市伏見区の京都競馬場付近は、かつては、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる三川合流地帯でした。 この辺りが淀と呼ばれるのも、淀川との関係を連想させます。 東には巨椋池(おぐらいけ)もあったことから、見渡す限り水が溢れかえっているような景観だったのでしょうが、現在は住宅街となっているため想像するのが難しい。 でも、街中にひっそりと立つ「淀小橋旧址」と刻まれた石碑を見ると、一帯が川に囲まれていた時代があったことを認めざるを得ません。

和宮降嫁を画策した岩倉具視が落飾蟄居した岩倉・岩倉具視幽棲旧宅

安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される桜田門外の変が起こります。 天皇を敬い外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷運動が盛んな時期に白昼堂々と大老が暗殺されたのですから、幕府の権威は一気に失墜しました。 このままでは幕府が危ないと考えた久世広周(くぜひろちか)と安藤信正の2人の老中は、朝廷と幕府が手を取りあって国難を乗り切る公武合体に舵を切り始めます。

祇園で交わされた薩土討幕の密約

京都市東山区の祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)から南に向かって2分ほど歩くと、左手に細長い石碑が立っています。 京都は、歴史的な事件が数多く起こっている都市なので、道を歩いているとよく石碑を目にします。 随分と昔に建立された石碑もありますが、つい最近建立された石碑もあり、祇園で見つけた「薩土討幕之密約記念碑」の石碑も、令和元年(2019年)7月16日の日付が記されていました。

梁川星巌の鴨沂小隠跡を示す梁川星巌邸址碑

安政5年(1858年)に江戸幕府が、尊王攘夷を唱える志士たちを次々と捕らえる安政の大獄が起こりました。 最初に捕縛されたのは梅田雲浜で、他に頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らも捕らえられました。 この時、梁川星巌(やながわせいがん)も捕らえられる予定でしたが、当時流行していたコレラにかかって死亡していたため捕縛を免れました。

京都霊山護国神社が創建されることになった霊山に建つ霊明神社

京都市東山区の維新の道を登っていくと、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)が建っています。 そこから南に少し歩くと、細い石段が山に向かって延びています。 石段を上った先には正法寺というお寺があるのですが、その途中には個人のお宅のような神社があります。 その神社は、霊明神社といいます。

安政の大獄で捕縛され六角獄舎で亡くなった近藤正慎の石碑・清水寺

京都市東山区の清水寺を拝観し、境内を巡って出口に近づこうかというところに2つの茶屋があります。 1軒は舌切茶屋、もう1軒は忠僕茶屋といいます。 春と秋の行楽シーズンでは、どちらの茶屋も人が多く大変賑わっていますね。 今は、観光客が、歓談しながら、お茶を飲んだり食事をしたりしている舌切茶屋と忠僕茶屋ですが、2つの茶屋が清水寺で営業を始めたのは、幕末の安政の大獄と関係しています。

会津藩士柴司の切腹に発展した明保野亭事件

京都市東山区の三年坂には、立派な枝垂れ桜が植えられています。 その枝垂れ桜があるのは、明保野亭(あけぼのてい)というお店です。 春の観光シーズンともなれば、三年坂を通る人は、必ずと言っていいほど、この枝垂れ桜の前で立ち止まり、その美しく咲いた姿に見とれていますね。 そんな旅行者や観光客に人気の明保野亭ですが、幕末の元治元年(1864年)に会津藩士の柴司(しばつかさ)が切腹するにいたった明保野亭事件が起こっています。

徳川家茂や一橋慶喜が訪れた東本願寺と渉成園

京都市下京区の京都駅の近くに東本願寺が建っています。 その東本願寺から東に3分ほど歩くと、当寺の飛地境内の渉成園(しょうせいえん)があります。 渉成園を拝観すると、立派なパンフレットを1部いただけます。 パンフレットには4種類あり、その中の「人物往来記 後編」では、幕末に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と将軍後見職の一橋慶喜が、渉成園を訪れたことが記されています。

蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡

京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。