京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。

「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。

これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。

ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。

「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。

幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。

フェートン号事件で藩の洋式化を目指す

佐賀藩が、明治維新に貢献できた背景には、フェートン号事件がありました。

フェートン号は、イギリスの帆船で、文化5年(1808年)に長崎に来航します。

当時のイギリスは、ナポレオン戦争によりフランスに併合されたオランダと交戦していました。

オランダは、鎖国下にあった江戸時代でも日本と交易をしており、長崎の出島で滞在するオランダ人もいました。

その長崎に突如現れたのがフェートン号です。

フェートン号は、オランダ国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ商館韻を人質にとって日本に薪水、食料を出すよう脅迫します。

さらにフェートン号は、湾内を探索するなどやりたい放題。

この責任をとり、長崎奉行の松平康英は切腹し、長崎警備にあたっていた佐賀藩も、本来定められていた人数よりも少ない人数で警備にあたっていたことから、幕府の叱責を受けます。

当時の佐賀藩主は、鍋島斉直(なべしまなりなお)でしたが、その後、天保元年(1830年)に17歳で藩主となった直正はフェートン号事件の教訓から藩の洋式化を目指します。

佐賀藩の装備が、まったくフェートン号にかなわず、西洋との文明の差を認識したからです。

アームストロング砲の製造で明治維新の表舞台へ

直正は、藩の近くに長崎があるのを利用して、藩士たちを長崎に送り込んで西洋の知識を身に着けさせます。

その効果は、嘉永3年(1850年)に反射炉の建造という形で表れました。

さらに安政5年(1858年)には火薬の製造に成功し、元治2年(1865年)には蒸気船まで開発できるようになっていました。

この頃になると、京都では倒幕運動が盛んになっており、薩長と幕府との間でいつ戦が起こってもおかしくない状況でした。

そして、慶応4年(1868年)の正月に鳥羽伏見の戦いが起こり、薩長を中心とした新政府軍が勝利します。

この時も、まだ佐賀藩は明治維新の表舞台に出てきていません。

佐賀藩が活躍し始めたのは、同年5月の上野の戦いからです。

佐賀藩では、世界最新のアームストロング砲を独自で製造できる技術を身に着けており、このアームストロング砲が旧幕臣たちで構成された彰義隊をあっという間に壊滅させました。

続く会津戦争でも、アームストロング砲はその威力を発揮し、会津若松城を落城させました。

この時の佐賀藩の貢献があったから、大隈重信や江藤新平などの藩士が明治新政府で活躍できたんですね。

京都市下京区の四条烏丸から四条通を5分ほど東に歩くと、江戸時代の佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑が立っています。

佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

この地に藩邸があったのは1700年頃までで、それ以後は四条烏丸の西に移転しています。

さらに幕末には、上京区上長者町通智恵光院東入北側に藩邸が移っているので、鍋島直正が藩主になった時には、下京区の佐賀藩邸はなくなっています。

まだ下京区に藩邸があった頃は、世の中は平穏だったんでしょうね。

なお、佐賀藩の支藩であった鹿島藩の京都藩邸も、北西に15分ほど歩いた新町御池にありました。

その跡地を示す石碑も置かれていますよ。

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