明治維新の総仕上げをした大村益次郎

嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。

この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。

彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。

その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。

医者の子として生まれ蘭学を学ぶ

大村益次郎は、山口の鋳銭司村(すせんじむら)の医者村田孝益の子として生まれました。

大村益次郎という名は、後に名乗ったもので、他にも村田蔵六や村田良庵とも称していましたが、ここでは、大村益次郎で統一しておきます。

益次郎は、医者になるために梅田幽斎や広瀬淡窓(ひろせたんそう)から学問を学んだ後、大坂の適塾で緒方洪庵から蘭学を学びました。

彼は、大変賢かったそうで、Wikipediaに掲載されている大村益次郎の肖像画を見ると、その額の大きさから頭が良かったことが伺えます。

適塾では、塾頭として講義を行うほどにまで蘭学を極め、また、大藩の藩医になれるほどの実力がありましたが、益次郎は、父孝益の願いにより、その後を継ぐべく鋳銭司村で医者となりました。

宇和島そして江戸へ

嘉永6年、浦賀にペリーが来航すると日本中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。

特にペリーが乗ってきた黒船には、多くの人々が驚愕し、それとともに日本でも黒船を造ってやろうと挑戦する人々が現れました。

それが、薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら)、佐賀藩の鍋島直正、そして、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり)だったのです。

宇和島藩は、軍艦を造るために蘭学に精通した人物を探していました。

そこで、適塾の緒方洪庵に誰か推薦してほしいと頼むと、彼は大村益次郎が適任だと答え、紹介することにしたのです。

緒方洪庵の推薦を受けた大村益次郎は、宇和島藩に雇われ、軍艦の建造、砲台の造営、兵書の翻訳を行いました。

安政3年(1856年)になると益次郎は江戸に行き、鳩居堂(きゅうきょどう)という蘭学塾を開きます。

また、幕府の洋学教育機関の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)でも教授手伝いをするなど、益次郎は、その能力を生かして働いていました。

運命を変えた桂小五郎との出会い

ここまでの大村益次郎は、優秀な大学教授といった感じで、幕末の政治の世界とは無縁の存在と言えます。

ある日、益次郎は、父孝益の見舞いのために山口の鋳銭司村に帰郷しました。

その時、彼は、長州藩の桂小五郎に会っています。

しかし、桂の方では益次郎とこの時会ったことを覚えていなかったそうです。

桂小五郎が、大村益次郎の存在を記憶したのは、安政6年10月29日のことでした。

この日、桂は江戸の小塚原(こづかっぱら)に安政の大獄で処刑された吉田松陰の遺骸を引き取りに行きます。

その帰り、桂は、大村益次郎が囚人の遺体を解剖しながら他の医者に臓器の説明をしている現場に遭遇しました。

この時、桂小五郎は、大村益次郎に衝撃を受け、藩の重役を説得して、彼を長州藩士として雇うことにしたのです。

第2次長州征討

その後、長州藩は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変、その翌年の蛤御門(はまぐりごもん)の変と第1次長州征討などにより大打撃を受け、政治の世界から姿を消します。

さらに慶応2年(1866年)には、幕府が第2次長州征討を行うことを決定し、長州藩は危機に直面していました。

長州藩は、薩摩藩と同盟を結び、幕府軍と全面的に戦うことを決定します。

この時、長州藩の総司令官に桂小五郎が指名したのが大村益次郎だったのです。

益次郎は、まず、藩士たちに歩兵、騎兵、砲兵の基礎を教え込み、軍隊を洋式化していきます。

そして、作戦を立てる時は、彼の理系の頭脳を駆使して、必要な兵力数や弾薬数を計算しました。

長州藩の兵士たちは、益次郎の計算結果に従って幕府軍と戦い連戦連勝。

高杉晋作の活躍や14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の急死などもあり、長州藩は幕府軍を追い払うことに見事に成功したのでした。

彰義隊をわずか1日で壊滅させる

慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで、長州藩と薩摩藩を中心とする新政府軍が旧幕府軍に勝利し、その後、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟との話し合いで江戸城の明け渡しが決まります。

江戸城明け渡し後の江戸の治安は、旧幕臣たちで結成された彰義隊(しょうぎたい)が守ることになりました。

しかし、その目的は表向きで、本心は江戸幕府の再興にあったのです。

彰義隊の構成員は日に日に増えて、3,000人にまで達しました。

そして、彼らは新政府軍の兵士たちを殺傷する事件を繰り返し起こしていました。

このような江戸の不穏な状態を江藤新平が京都の政府に報告します。

報告を受けた木戸孝允は、大村益次郎を軍防事務局判事として江戸に向かわせました。

この時、江戸にいた新政府の重役は、西郷隆盛と海江田信義(かえだのぶよし)でした。

2人とも薩摩藩士で、ペリー来航以来、明治維新のために働いてきた人物です。

海江田は、突如現れた益次郎が新政府軍の最高司令官であることが気に入りませんでした。

また、益次郎も他人の心情に配慮するということが苦手で、海江田に対して「あなたは、いくさを知らない」と言ったりしたので、ますます海江田の気分を害してしまいました。

結局、西郷隆盛が、2人の間に入って、新政府軍の作戦については、全て大村益次郎に任せることにして、その場を収めました。

5月15日。

新政府軍と彰義隊との間に戦いが始まります。

益次郎は、この日に備えて、何日もその理系の頭脳をフル回転させて作戦を考えていました。

被害を最小にし、かつ江戸の町が火事にならないようにするにはどうすれば良いのか。

益次郎の頭脳によりはじき出されたのは、佐賀藩が用意した2門のアームストロング砲で彰義隊の陣地を砲撃すること。

アームストロング砲は、当時最も威力のあった大砲で、射程は2kmもありました。

佐賀藩の鍋島直正は、あまりに威力があり過ぎるので、日本人同士の戦いでこの大砲を使うことは好ましくないと言ったそうです。

彰義隊と新政府軍との戦いは、黒門口が激しく、薩摩藩は、この戦いで大きな被害を受けました。

このまま戦いが長引くのではないかと思われたその時、益次郎の指示によりアームストロング砲が火を噴きました。

砲撃を受けた彰義隊は、一瞬にして壊滅。

江戸の町も火事になることなく新政府軍が勝利したのでした。

西南戦争を予言してこの世を去る

彰義隊を壊滅させた新政府軍は、その後も江戸に大村益次郎が最高司令官として残り、各地で旧幕府軍と戦い勝利しました。

旧幕府軍と戦った一連の戊辰戦争(ぼしんせんそう)が終結し、益次郎はその功績から1,500石を賜りました。

これは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の次に多い報償です。

これを快く思わなかったのが、海江田信義です。

海江田は、西郷、大久保とともに長年維新のために活動してきたのに京都で弾正台の長官という光の当たらない職についていました。

明治2年(1869年)9月4日。

京都市中京区の三条木屋町で、大村益次郎は数人の刺客に襲われます。

刺客を送ったのは海江田だと噂されましたが、真相は闇の中です。

大村益次郎遭難之碑

大村益次郎遭難之碑

襲われた時、益次郎は自分で傷口を治療し、その後、大阪仮病院に搬送されました。

そこで、ボードウィン、緒方惟準、三瀬周三といった優秀な医師の治療を受けましたが、敗血症を併発し11月5日に亡くなりました。

享年46歳。

ところで、なぜ、大村益次郎は襲撃された時期に京都にいたのでしょうか。

実は、益次郎は、いずれ西郷隆盛が九州で反乱を起こすことを予言していました。

その反乱に備えるために益次郎は、京都や大阪に軍事施設を造り、その視察のために京都に訪れていたのです。

そして、明治10年。

西郷隆盛は益次郎の予言通り反乱を起こしましたが、亡くなる前に益次郎が考えた軍制によって鎮圧されました。

西南戦争は、始まる前に決着がついていたわけですね。

なお、大村益次郎を題材にした小説に司馬遼太郎の花神があります。

大村益次郎に興味をもたれた方は、ぜひ読んでみてください。

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