室町時代に足利義政が造営した銀閣寺には、錦鏡池(きんきょうち)を中心とした池泉回遊式庭園が設けられています。
錦鏡池のほとりに建つ観音殿の銀閣は、黒っぽい外観のためか、水面に映る姿に落ち着きを感じます。
金閣寺のような派手さはないものの、いつまでも眺めていたくなる景色。
その錦鏡池を見ていると、たくさんの石で囲まれているのに気づくとともに、池の中にも所々に大きな石が置かれているのがわかります。
これらは、足利義政が洛中洛外から集めてきた名石です。
室町幕府の財政に打撃を与えるほどの出費
室町幕府8代将軍の足利義政は、将軍後継問題を処理できず応仁の乱(1467年)を引き起こした駄目な政治家として後世に名を残したことで知られています。
一方で、彼は芸術的才能を高く評価される人物でもあります。
その義政の二面性によって造られたのが銀閣寺の池泉回遊式庭園。

錦鏡池と銀閣
銀閣寺の庭園造営に際しては、御所だけでなく京都やその周辺の寺社から名木名石を集めてきたという。
集めたと言えば聞こえは良いですが、強奪したと言った方が正確。
美を極めた建物と庭園の建設には、多くの資材と人夫が必要になったわけですが、当然、それらを集めるためには莫大な資金が必要です。
そこで、義政は将軍の権威を利用し、山城国内の荘園や諸国守護大名に対して費用を出すよう要求。
日明貿易の利益も突っ込み、それでも足らないものだから、飢饉で苦しむ農民からも税を徴収。
そこまでして行われた山荘の東山殿造営でしたから、当然、室町幕府の財政にも大打撃を与え、幕府衰退の一因になりました。
このようにして10年近い歳月をかけ、長享3年(1489年)2月に最後の建物である観音殿が上棟し東山殿が完成。
義政の喜びはひとしおだったでしょう。
そして、庭園や建物の建設に徴発された人々は、やっと解放されると喜んだに違いない。
そのような経緯を知って、銀閣寺の池泉回遊式庭園を鑑賞すると、錦鏡池が灰色の石からにじみ出た人々の汗のように思えてなりません。

東求堂
義政は、完成翌年の延徳2年(1490年)にこの世を去り、彼の遺命により東山殿は寺に改められ、慈照寺と名付けられました。
そこには、義政の人々を救済する思いが込められていると信じたい。
錦鏡池の名石
錦鏡池を覘くと、名石の近くに立つ木札にその名が記されているのがわかります。
こちらは北斗石と名付けられた名石。

北斗石
そして、こちらは大内石。

大内石
これらの石は、大名たちが寄進したことから、諸侯石と呼ばれています。
ちなみに大内石は、大内氏が寄進したもの。
先ほども述べましたが、これらの名石は義政が強奪するように集めたものなので、喜んで差し出したものではありません。
錦鏡池のほとりには、現在も松やカエデなど様々な木々が植わっていますが、これらも洛中洛外から集めた名木かもしれません。

錦鏡池
慈照寺は、その後の戦国の動乱により諸堂が灰となります。
残ったのは観音殿と東求堂のみ。
それだけ凄まじい戦火であったのなら、池周囲に植えられた名木も被害を受けたはず。
また、東山殿造営から500年以上経っているので、枯死した名木もあったことでしょう。
そう考えると、義政の時代から残る樹木は少ないのかも。
石については、織田信長が足利義昭のために二条城を築城するにあたり、九山八海と呼ばれる名石が徴発され、慈照寺から姿を消すことに。
後に二条城も、信長と義昭の関係が悪化したことで破却され、建築資材は安土城の築城に使われています。
その後、九山八海がどうなったのかはわかりません。
江戸時代に造営された銀沙灘と向月台
銀閣寺の境内に入って、最初に目にするのが、白砂で作られた銀沙灘(ぎんしゃだん)。

銀沙灘
これも足利義政が造ったのかと思うかもしれませんが、銀沙灘が見られるようになったのは江戸時代からです。
現在の銀閣寺の景観は、江戸時代の改修によるものなので、足利義政の時代とは違っています。
銀沙灘の脇に造られた円錐形の向月台も、後世のもの。

向月台
現在見られる錦鏡池も、義政の時代とは異なっているのかもしれませんが、ほとりに観音殿と東求堂が建っていることで往時の面影を偲ぶことができます。
なお、銀閣寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。