京都を焼き尽くした応仁の乱

京都の町は、歴史の中で、数々の戦乱や火災によって焼失してきました。

その中でも、応仁元年(1467年)から11年間にわたって続いた応仁の乱は、町を焼き尽くし、京都の人々や文化に大きな影響を与えました。

おそらく、京都の焼失の中では応仁の乱が最大規模だったのではないでしょうか。

ところで、この応仁の乱はなぜ起こったのでしょうか?

歴史の教科書でも採りあげられていますが、今一度みていきたいと思います。

事の発端は複数の家の後継者問題

応仁の乱は、将軍の足利家、畠山家、斯波家の後継者問題が原因で起こります。

まずは畠山家の後継者問題から。

畠山家は先代の義国の子の義就(よしなり)と義国の弟の持冨の子・政長との間で後継者問題が起こります。

政長は養子でしたが、幕府最高職の管領・細川勝元の後ろ盾を得て、義就を京都から追放します。

しかし、文正2年(1467年/応仁元年)の正月2日に、今度は義就が侍所の長官・山名宗全の支援を得て、将軍・足利義政に謁見し、河内・紀伊・越中の守護職への復帰を認めさせ、政長を京都から追放しました。

これに対し、政長も黙ってはいません。政長は、万里小路(までのこうじ)にある自らの屋敷に火を放ち、上御霊神社に陣を敷いて、戦の準備をします。

足利家の後継者問題

畠山家の後継者争いと同じ頃、足利家でも後継者問題が起こっていました。

8代将軍の義政は、政治への関心が少なく、将軍としては無能であったと言われています。この点も応仁の乱の原因の一つなわけですが、他にも義政には、長年、世継ぎが生まれなかったという問題がありました。

そこで、義政は、寛正5年(1464年)に出家した弟の義視(よしみ)を次期将軍に指名し、細川勝元がその後見人となりました。

ところがこの判断が裏目に出ます。

なんと、その翌年に妻の日野富子に子供が生まれるのです。その子が、後の9代将軍となる義尚です。

すでに次期将軍には義視が指名されていましたが、我が子・義尚を次期将軍にしたい富子は、山名宗全の支援を得て対抗しました。

これが、畠山家の後継者問題と深く関係してきます。

足利義視+畠山政長=細川勝元が支援。

足利義尚+畠山義就=山名宗全が支援。

つまり、両家の後継者問題は、幕府の実力者である細川、山名の対立となるわけです。

また、細川と山名の対立関係は、斯波家の後継者問題とも関わっていました。

斯波義敏を細川勝元が支援、養子であった斯波義廉(よしかど)を山名宗全が支援していたことも両者の対立を大きくしていたのです。

両者の対立関係に斯波家を加えると以下のようになります。

足利義視+畠山政長+斯波義敏=細川勝元が支援。

足利義尚+畠山義就+斯波義廉=山名宗全が支援。

後継者争いの果てに

話を上御霊神社の畠山政長の陣に戻します。

自邸に火を放った畠山政長は、正月17日未明(18日早朝)に遂に戦の口火を切ります。

しかし、この戦は政長の敗北に終わります。

応仁の乱が勃発した上御霊神社

応仁の乱が勃発した上御霊神社

上御霊神社での畠山家の戦は小競り合いでしたが、これによってますます細川と山名の対立が激化。

両者の争いの中、日野富子と義尚が細川についたり、逆に義視が山名についたりと、もはや後継者問題とは関係のない状態となり、また諸国から大名が参戦するなど、収集がつかなくなっていきました。

そして、両者の決着がつかないまま、細川勝元も山名宗全もこの世を去り、世は戦国時代へと突入していきます。

応仁の乱の影響

応仁の乱は、京都を焼け尽くすほどの大乱だったわけですが、その影響で、天龍寺や仁和寺といった名刹まで焼けてしまいました。

応仁の乱は京都にとっては散々だったのですが、都の人々が地方に逃れ、その地で都の文化を広めることにもなりました。

その結果、室町時代後期の山口県は西の京と呼ばれるほど文化が発展したと言われています。

また、堀川通りを挟んで東に細川、西に山名が陣取ったことから、それぞれ東陣、西陣と呼ばれ、今でも西陣の地名が残り、有名な西陣織の名が誕生しました。

応仁の乱は、権力者の後継者争いによって京都を焼き尽しましたが、新たな文化を誕生させたという一面も持っています。

また、政治に関しては無能だった足利義政も文化に関しては優れた才能を持っており、東山文化を開花させた功績があります。

なお、「今日は何の日?徒然日記」さんの応仁の乱・激戦 相国寺の戦いという記事で応仁の乱の相国寺の戦いについて紹介されています。わかりやすい表現で解説されているので、読みやすいですね。