室町時代一覧

いけ花発祥の地・六角堂

京都市中京区の烏丸通沿いは、多くのビルが建ち並ぶビジネス街となっています。 それらビルに囲まれた烏丸六角に六角堂の通称で親しまれている頂法寺があります。 六角堂は、聖徳太子を開基として創建されたというのですから、その歴史はとても古いです。 そして、その頃から、いけ花があったというのですから、こちらも長い歴史を持っています。 実は、六角堂といけ花の成立には関係があり、六角堂が建つ地は、いけ花発祥の地でもあるのです。

天王山登り口にある山崎宗鑑冷泉庵跡

京都府乙訓郡大山崎町の天王山のふもとに室町時代の連歌師であった山崎宗鑑の冷泉庵跡を示す石碑が置かれています。 滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた山崎宗鑑は、室町幕府9代将軍の足利義尚に仕えていましたが、義尚が近江で戦没した際、世の無常を感じて出家し大山崎に隠棲しました。 ちなみに出家する前は、志那弥三郎範重と名乗っていました。

応永の大飢饉で施行が行われた五条河原

三条大橋から五条大橋まで、鴨川の西側には、お店などのたくさんの建物が並んでいます。 今では、鴨川沿いに建物があるのは当たり前の風景となっていますが、かつては鴨川が氾濫したことから居住に適する場所ではありませんでした。 中世においては、人家が鴨川沿いに見られるようになりますが、定住していたわけではなく、飢饉や疫病などの災害で、集まった被災者が住む場所でした。

疫病を予防できずに流罪となった五條天神宮

京都市下京区の西洞院松原に五條天神宮という神社が建っています。 五條天神宮は、平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇の命により空海が大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請したのが始まりとされ、医薬、禁厭(きんえん)、疫病除けの神さまとして崇められてきました。 ちなみに禁厭とはまじないのことです。 その五條天神宮ですが、室町時代に流罪になった経歴を持っています。

現存する最古の三門は東福寺にある

寺院には、山門と呼ばれる入り口があります。 山門の中には、三門と表記するものもありますね。 三門は、空門(くうもん)、無想門(むそうもん)、無作門(むさもん)からなる三解脱門(さんげだつもん)のことで、涅槃(ねはん)に達するために必ず通らなければならない門とされています。 京都市東山区の東福寺にも、大きな三門がありますが、これは現存する最古の三門として国宝に指定されています。

復元された相国寺水路の石垣

京都市上京区の京都御苑の北に相国寺が建っています。 相国寺は、永徳2年(1382年)に室町幕府3代将軍の足利義満が発願し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)を招いて創建された臨済宗のお寺です。 足利将軍が創建したお寺とあって相国寺は、今も広い境内を持っています。 しかし、創建から現在にいたるまで、相国寺は何度も焼失と再建を繰り返しているため、創建当時の姿を見ることはできません。 でも、2010年から2012年にかけて行われた発掘調査により、中世相国寺の遺構の一部が見つかり、移築・復元されています。

上御霊神社の御霊合戦旧跡の石碑

戦国時代の幕開けとなったのは、文正2年(応仁元年/1867年)1月18日に始まった応仁の乱です。 この日、畠山政長と畠山義就(よしなり)との間で、畠山惣領の座を巡る合戦が起こりました。 畠山家の内紛だけでなく、足利将軍家の後継問題、斯波氏の内紛なども絡み、戦いは11年にもおよぶ長期戦となりました。

東福寺に残る東司は室町時代のトイレ

京都市東山区の東福寺は、京都屈指の紅葉の名所として知られていますが、三門など諸堂も立派な建物ばかりです。 そのため、東福寺に参拝した時は、建物もしっかりと見ておきたいですね。 その東福寺の諸堂の中には、東司(とうす)と呼ばれる建物が建っています。 東司とは聞きなれない建物でありますが、実はトイレのことです。

応仁の乱で活躍した足軽骨皮道賢が陣取った稲荷山

今から550年前の応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は、京都の街を焼きつくしました。 これまでの価値観は崩壊し、世は戦国時代へと突入。 公卿たちが都を離れて地方で暮らすようになり、各地に小京都ができるようになったのもこの頃からです。 戦国時代は、社会の価値観が崩壊し、下の者が上の者に取って代わる下剋上が流行するようになりました。 そして、下剋上を象徴するように活躍し始めたのが、足軽と呼ばれる兵士たちでした。

山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院

室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。 応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。 応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。 畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。