京都の歴史一覧

二尊院に残る空公行状碑

京都市右京区の嵯峨に小倉山を背にして建つ二尊院は、春の桜や秋の紅葉が美しいお寺で、多くの観光客が訪れます。 その二尊院境内の小倉山中腹に法然上人廟が建っており、その中に空公行状碑という石碑が置かれています。 いったい、この空公行状碑は、どういったものなのでしょうか。

江戸幕府が設置した鷹ヶ峰薬園の跡地

病気やケガをした時に治療のために使う薬は、いつから利用されていたのか知りませんが、日本だと江戸時代に全国に薬園が設置されていました。 有名なところでは、江戸の小石川薬園がありますが、京都にも北区の鷹峯(たかがみね)に寛永17年(1640年)に江戸幕府により、「鷹ヶ峰薬園」が設けられています。

東本願寺の大橇と毛綱

2月上旬。 京都市下京区の東本願寺に参拝しました。 東本願寺は、京都駅近くに建つ大寺院で、京都駅ビルからも、その諸堂を見ることができます。 そのため、京都駅から最も近い観光名所として、京都に訪れた多くの人に認知されていることでしょう。

清浄華院にある天明の大火の供養塔

1月中旬。 京都市上京区の清浄華院(しょうじょうけいん)に参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山に数えられる浄土宗のお寺です。 清浄華院の西側に京都御苑があることから、京都御苑を散策する時にお参りすることが多いですね。 今回も、京都御苑を訪れる前に清浄華院に立ち寄りました。

島原に残る東鴻臚館址

平安時代、京都には外国からの賓客をもてなす鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる施設がありました。 平安京の中心を南北に朱雀大路が設けられ、その南には羅城門が建ち、左右に東寺と西寺が建立されました。 そして、羅城門から北に進み、七条に朱雀大路を挟んで東鴻臚館と西鴻臚館が造営されました。

真如堂にある京都映画誕生の碑

京都市左京区の神楽岡の南東に真如堂(しんにょどう)というお寺が建っています。 正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、春の桜や秋の紅葉が観光客に人気があります。 境内は、日本のお寺らしい建物や石碑がいくつも建っていますが、中にはお寺らしくないものもあります。 例えば、「京都映画誕生の碑」ですね。

豊国神社の近くにある明治天皇御小休所下京第二十七区小学校阯の石碑

京都市東山区の正面通に耳塚があります。 耳塚は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本の兵が朝鮮や明国の兵たちの耳や鼻を削いで日本に送った際に埋葬した塚です。 その耳塚の東隣には公園があります。 公園の片隅には、2つの石碑が置かれており、どちらも、ここが明治天皇御小休所(めいじてんのうごこやすみどころ)と下京第二十七区小学校があった場所だと伝えています。

最初の里内裏となった土御門烏丸邸

京都市上京区にある京都御所は、元弘元年(1331年)に光厳天皇(こうごんてんのう)が即位して以降、天皇の住いである内裏(だいり)となりました。 かつて、平安京の大内裏は、現在の京都御所よりもっと西にあり、二条城が建つ辺りでした。 その大内裏の中に内裏があったのですが、火災に遭うたびに貴族の邸宅を仮の内裏として一時的に利用していました。 この仮の内裏を里内裏(さとだいり)と言います。 そして、元弘元年に土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を里内裏として以来、明治2年(1869年)まで御所として使われ続けました。

二條家邸跡の地下通路と井戸

藤原氏には、摂政や関白に就ける五摂家と呼ばれる家がありました。 五摂家には、近衛、九条、二條、一條、鷹司があり、鎌倉時代から江戸時代まで摂政や関白に就いていましたが、明治時代に入ると五摂家から摂政にも関白にも任命されなくなりました。 五摂家の史跡は、今も京都市内に残っています。 上京区の京都御苑の北側に建つ同志社女子大学にも、五摂家のひとつ二條家の史跡が残っています。

壬生寺の壬生官務家墓塔と人丸塚

京都市中京区に建つ壬生寺(みぶでら)は、新撰組ゆかりのお寺として有名です。 境内の壬生塚には、新撰組局長の近藤勇他、新撰組隊士のお墓があり、新撰組ファンの方々の参拝が絶えません。 その壬生塚には、参拝者にあまり注目されていない壬生官務家(みぶかんむけ)墓塔もあります。