「京都の歴史」一覧

私立絵画専門学校裏と都ホテルに造られた隧道式防空壕

京都市は、戦時中に空襲を受けることが少なかった都市です。 それでも、昭和20年(1945年)に入ると1月に東山の馬町が空襲を受け、その後も、右京区の太秦(うずまさ)や上京区の西陣などが被害に遭っています。 日本各地で空襲が激しくなったのを受け、昭和19年に内務省により重要施設の隧道(ずいどう)式防空壕への移転が進められ、京都でも同20年1月から府庁を防空壕に移すための工事が始まりました。 府庁の移転場所に決まったのは、東山七条の私立絵画専門学校裏の丘陵地と蹴上の都ホテルの地下でした。

かつて治水神が祀られていた鴨川

今は、京都らしさの象徴の一つとして観光客から人気の鴨川。 穏やかな流れは、忙しない日々を送る現代人には癒しの風景であり、ただ眺めているだけでストレスが和らぐ人もいるのでは。 でも、その鴨川。 昔は、大雨になると周囲に大きな被害をもたらし、京都に住む者に多大な不安を与えていました。 そういうこともあり、かつての鴨川には、洪水から人々を守るため、治水神が祀られていたと伝えられています。

本圀寺跡から出土した僧名が墨書された陶磁器

堀川五条の交差点から堀川通を北に約100メートル歩き、万寿寺通を西に曲がると、「南無妙法蓮華経」と刻まれた背の高い題目碑が立っています。 ここは、かつて本圀寺(ほんこくじ)があった場所。 当寺は、昭和44年(1969年)に山科に移転し、その跡地には、一部にお寺が見られるものの、商業ビルやマンションが建ち並び日蓮宗の大本山がここにあったとは想像できない景観になっています。 この本圀寺跡ですが、昭和60年に平安博物館による発掘調査が行われた際、僧名が墨書された陶磁器が多数出土しています。

淀千両松にある戊辰役東軍戦死者埋骨地の慰霊碑

慶応4年(1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が、旧幕府軍を火力で圧倒します。 1月4日には、新政府軍が錦の御旗を掲げ、旧幕府軍を構成する会津藩や新撰組は、伏見の南西に位置する淀まで撤退。 そして、翌5日には、淀の千両松で新政府軍と旧幕府軍が再び戦闘を繰り広げ、当地は鳥羽伏見の戦いにおける激戦地となりました。 現在、千両松には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた慰霊碑が立っています。

伊藤若冲の『動植綵絵』の売却で境内を取り戻した相国寺

京都市上京区の京都御苑の北に相国寺(しょうこくじ)という臨済宗のお寺が建っています。 マツやカエデなど、たくさんの木々が植わる境内は約4万坪を誇る。 創建したのは室町幕府3代将軍の足利義満。 境内を見渡しながら、さすが将軍ともなると、このような広大な敷地にお寺を造営できるんだなと考えてしまいますが、創建当時は約144万坪もあったというのですから、いったいどれだけの財力を持っていたのか想像することもできません。

江戸幕府によって城構えに改められた知恩院と金戒光明寺

京都市東山区の知恩院と左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、ともに浄土宗の本山であり、広々とした境内に豪壮な建物がいくつも建っています。 どちらも浄土宗の開祖の法然上人ゆかりの地ですが、現在の寺観になったのは江戸時代のこと。 徳川家の援助を受けて、境内が整備されたのですが、そこには、幕府の戦略的な意図があったとされています。

祇園祭の山鉾は昔は押小路通まで並んでいた

京都で毎年7月に行われる祇園祭は、平安時代に神泉苑で疫病退散のために行った御霊会(ごりょうえ)が起源とされています。 当初は比較的簡素だった御霊会ですが、疫神を喜ばせることで疫病の流行を防ごうということから、次第に派手になっていきました。 祇園祭の主役は、八坂神社の祭神が乗る神輿ですが、祭を華美に飾り立てているのは山鉾です。 豪華絢爛な懸装品(けそうひん)が注目を集める山鉾は、現在30基あまりですが、かつては50基以上存在していたといわれています。 また、山鉾が建ち並ぶ範囲も、北は押小路通から南は松原通まで及んでいたとされ、夏の洛中は山鉾だらけだったようです。

法然上人と善導大師が出会ったのは円山公園

京都市東山区の八坂神社の東にある円山公園。 桜の名所として知られており、春には国内外から多くの旅行者や観光客が訪れます。 円山公園ができたのは明治になってからですが、かつてはこの一帯は真葛ヶ原(まくずがはら)と呼ばれていました。 平安時代後期に法然上人が夢の中で善導大師と対面したと伝わる真葛ヶ原は、現在の円山公園だったのです。