京都の歴史一覧

蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡

京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。

岩瀬忠震が宿所とした瑞泉寺

安政元年(1854年)3月3日に幕府は、日米和親条約に調印し、4月5日にそのことを朝廷に奏上しました。 その後、安政3年7月にアメリカ総領事ハリスが下田に着任すると、日米通商条約の締結を要請してきました。 この時、交渉全権に就任したのが、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直です。

銀座発祥の地・伏見銀座跡

日本でもっとも有名な繁華街はどこでしょうか。 そのような統計があるのかは知りませんが、東京の銀座は、関東に住んでいない人でも知っている繁華街ですから、日本で最も知られた繁華街の一つだと思います。 その銀座。 実は、発祥は京都市伏見区なのです。

四条通にある円山応挙宅址の石碑

京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。 今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。 四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。 その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。

朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。 しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。 そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。 朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西本願寺近くにあった本圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ本能寺が宿所とされました。

大宮中立売の聚楽第址の石碑

天正13年(1585年)に関白に就任した豊臣秀吉は、その翌年の天正14年に京都に聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)の造営を開始しました。 聚楽第は、今はありませんが、かつて聚楽第があった場所には、それを示す石碑が立っています。 ただ、その石碑は、あまり目立つものではなく、気づかずに素通りしてしまう程度のものです。

名和長年最期の地・名和長年公遺蹟

延元元年(1336年)6月30日。 後醍醐天皇方の新田義貞と名和長年は、東寺にたてこもる足利尊氏を攻撃しました。 しかし、東寺の東大門は固く閉ざされ、新田義貞と名和長年は、足利尊氏を討ち取ることができませんでした。

八坂の塔は室町幕府が設置した利生塔

朝廷が南朝と北朝に分かれて争った南北朝時代は、多くの犠牲者を出しました。 南朝と対抗するために光明天皇を擁立して北朝とした足利尊氏とその弟の直義は、元弘の変から南北朝の争乱によって犠牲になった人々の霊を慰めることを考えます。 その方法は、奈良時代に聖武天皇が勅願により、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)と国分尼寺(法華滅罪寺)を設置したのをならい、全国に安国寺と利生塔(りしょうとう)を設置するというものでした。