京都の歴史一覧

形式を変えながら存続する祇園祭は京都の町や文化を象徴している

令和2年(2020年)と令和3年は、新型コロナウイルスの影響で、祇園祭は規模を縮小して行われることになりました。 祇園祭は、貞観11年(869年)に全国的に疫病が流行したことから、それを鎮めるために祇園会(ぎおんえ)として行われたのが始まりです。 以来、今日まで祇園祭は続いていますが、その形式は時代によって変化し、時には中止となることもありました。 なので、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して行われる祇園祭もまた、長い歴史の中で見ると、時々起こる祭りの変化のひとつと言えそうですね。

会津藩士柴司の切腹に発展した明保野亭事件

京都市東山区の三年坂には、立派な枝垂れ桜が植えられています。 その枝垂れ桜があるのは、明保野亭(あけぼのてい)というお店です。 春の観光シーズンともなれば、三年坂を通る人は、必ずと言っていいほど、この枝垂れ桜の前で立ち止まり、その美しく咲いた姿に見とれていますね。 そんな旅行者や観光客に人気の明保野亭ですが、幕末の元治元年(1864年)に会津藩士の柴司(しばつかさ)が切腹するにいたった明保野亭事件が起こっています。

蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡

京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。

岩瀬忠震が宿所とした瑞泉寺

安政元年(1854年)3月3日に幕府は、日米和親条約に調印し、4月5日にそのことを朝廷に奏上しました。 その後、安政3年7月にアメリカ総領事ハリスが下田に着任すると、日米通商条約の締結を要請してきました。 この時、交渉全権に就任したのが、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直です。

銀座発祥の地・伏見銀座跡

日本でもっとも有名な繁華街はどこでしょうか。 そのような統計があるのかは知りませんが、東京の銀座は、関東に住んでいない人でも知っている繁華街ですから、日本で最も知られた繁華街の一つだと思います。 その銀座。 実は、発祥は京都市伏見区なのです。

四条通にある円山応挙宅址の石碑

京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。 今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。 四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。 その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。

朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。 しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。 そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。 朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西本願寺近くにあった本圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ本能寺が宿所とされました。

大宮中立売の聚楽第址の石碑

天正13年(1585年)に関白に就任した豊臣秀吉は、その翌年の天正14年に京都に聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)の造営を開始しました。 聚楽第は、今はありませんが、かつて聚楽第があった場所には、それを示す石碑が立っています。 ただ、その石碑は、あまり目立つものではなく、気づかずに素通りしてしまう程度のものです。