京都市山科区に毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんぜき)というお寺が建っています。
毘沙門堂門跡は、三千院、青蓮院、妙法院、曼殊院とともに天台宗の五箇室門跡の一つに数えられています。
門跡寺院は、皇族関係者が代々住職を務めてきたお寺で、そのため、皇室と縁が深いです。
毘沙門堂も、江戸時代に後西天皇の皇子公弁法親王(こうべんほっしんのう)が入寺して以来、門跡寺院となっています。
その毘沙門堂の境内には、徳川家の家紋である葵の御紋が入った灯籠が立っています。
徳川家光廟から移した灯籠
毘沙門堂には、JRまたは地下鉄の山科駅から北に約15分歩くと到着します。
境内に入り、急な石段を上った先に仁王門があり、それをくぐると朱色の唐門、そして奥に本堂が建っています。
![本堂前](https://kyotohotelsearch.com/blog/wp-content/themes/simplicity2/images/1x1.trans.gif)
本堂前
唐門の左右には、2基の立派な灯籠が立っており、これに葵の御紋が入っています。
![灯籠](https://kyotohotelsearch.com/blog/wp-content/themes/simplicity2/images/1x1.trans.gif)
灯籠
火袋と頭に葵の御紋が確認できますね。
![火袋の葵の御紋](https://kyotohotelsearch.com/blog/wp-content/themes/simplicity2/images/1x1.trans.gif)
火袋の葵の御紋
ところで、皇室と関係が深い毘沙門堂になぜ葵の御紋が入った灯籠があるのでしょうか。
毘沙門堂は、正式には出雲寺(いずもじ)といい、大宝3年(703年)に行基が開いたと伝えられています。
その後、鎌倉時代初期に平親範(たいらのちかのり)が、平家ゆかりの平等寺、尊重寺、護法寺を合併して復興しましたが、兵火により焼失しています。
再建は、江戸時代に入ってからで、天海僧正によって復興され、寛文5年(1665年)に山科に移ってきており、同年に毘沙門天像を本尊としたことから、毘沙門堂と呼ばれるようになりました。
天海僧正は黒衣の宰相と呼ばれ、徳川家康の政治顧問として活躍しています。
この辺りから、毘沙門堂と徳川との関係がうかがわれますね。
さて、葵の御紋が入った灯籠ですが、以前に紹介した『京都 知られざる歴史探検』の上巻によれば、奉納したのは、東山天皇の皇子の公寛法親王(こうかんほっしんのう)とのことで、銘文には享保6年(1711年)と記されているそうです。
天台座主であった公寛法親王が、毘沙門堂と関係ある人物であることは想像できます。
では、徳川との関係はどうだったのかというと、公寛法親王は、江戸の寛永寺と日光の輪王寺の門跡を兼務する輪王寺宮(りんのうじのみや)であったことから、親しい間柄であったことがうかがえます。
そして、毘沙門堂門跡は、輪王寺宮が兼ねるのが通例だったとのことですから、葵の御紋が入った灯籠を奉納したことは不思議なことではないようです。
灯籠の竿部には、大猷院殿(だいゆういんでん)と刻まれていたことがわかっています。
大猷院殿は、徳川家光の院殿号です。
徳川家光は、輪王寺に埋葬されていますが、寛永寺にも霊廟が造営されました。
その寛永寺大猷院廟が、享保5年(1720年)に火災で焼失し、そこにあった銅灯籠が寛永寺ゆかりの寺社に移されたそうです。
毘沙門堂にある葵の御紋が入った灯籠は、その時に移されたものとのこと。
だから、皇室と関係が深い毘沙門堂に葵の御紋が入った灯籠が立っているんですね。
お寺に当たり前のように立っている灯籠ですが、じっくりと見ると意外な発見があるものです。
お寺に参拝する時は、細かいところまで見ておきましょう。
なお、毘沙門堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。