江戸時代一覧

本圀寺跡から出土した僧名が墨書された陶磁器

堀川五条の交差点から堀川通を北に約100メートル歩き、万寿寺通を西に曲がると、「南無妙法蓮華経」と刻まれた背の高い題目碑が立っています。 ここは、かつて本圀寺(ほんこくじ)があった場所。 当寺は、昭和44年(1969年)に山科に移転し、その跡地には、一部にお寺が見られるものの、商業ビルやマンションが建ち並び日蓮宗の大本山がここにあったとは想像できない景観になっています。 この本圀寺跡ですが、昭和60年に平安博物館による発掘調査が行われた際、僧名が墨書された陶磁器が多数出土しています。

江戸幕府によって城構えに改められた知恩院と金戒光明寺

京都市東山区の知恩院と左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、ともに浄土宗の本山であり、広々とした境内に豪壮な建物がいくつも建っています。 どちらも浄土宗の開祖の法然上人ゆかりの地ですが、現在の寺観になったのは江戸時代のこと。 徳川家の援助を受けて、境内が整備されたのですが、そこには、幕府の戦略的な意図があったとされています。

後醍醐天皇の道案内をして名付けられた命婦稲荷神社

京都市下京区に命婦稲荷神社(みょうぶいなりじんじゃ)という神社が建っています。 境内が狭く、社殿も小さめで、どこにあるのか探すのもちょっと大変。 そのためか、命婦稲荷神社と聞いても、「そんな神社あったっけ?」とすぐに思いつかない人が多そうです。 でも、鉄輪(かなわ)の井戸と聞くと、「あそこね」と思い出す人は少なくないのでは。

五臓六腑を納めた釈迦如来座像を祀る瑞光寺

京阪電車の龍谷大前深草駅を出て南東に約10分歩くと瑞光寺(ずいこうじ)というお寺が建っています。 茅葺屋根の本堂は寂音堂(じゃくおんどう)と呼ばれ、近隣の閑静な住宅街に違和感なく溶け込んでいます。 その本堂に本尊として祀られているのが釈迦如来座像で胎内には五臓六腑が納められています。

知恩院の友禅苑にある宮崎友禅斎の像

京都を歩いていると、着物で観光している方をよく見かけます。 最近は、海外からお越しの方も着物をレンタルし、京都の街に溶け込むように観光していますね。 その中でも女性の着物は、花や葉などが染められた艶やかな意匠となっているものが多く、街中を歩いているだけで京友禅の美を楽しめます。 京友禅の技法は、その名からもわかるように京都で考案されたもの。 考案者は宮崎友禅斎で、京都市東山区の知恩院の門前に居を構えていました。

聞名寺の門前に立つ香川景樹の墓を示す石碑

京都市左京区の東山二条の交差点から東側の歩道を南に少し歩くと、癌病平癒にご利益があると信仰されている明眼地蔵を祀る聞名寺(もんみょうじ)というお寺が建っています。 その門前には、境内に江戸時代後期の歌人である香川景樹(かがわかげき)のお墓があることを示す石碑が立っています。

頂妙寺にある有隣軒輔信の墓

京都市左京区の頂妙寺は、境内に建つ仁王門が仁王門通の由来となったことで知られています。 広い境内を持つ日蓮宗のお寺ですが、普段は参拝する人が少なく境内は静かです。 その頂妙寺の境内の北東角には、江戸時代の茶人である有隣軒輔信のお墓があります。

醍醐の花見を描いたがために入牢となった喜多川歌麿

慶長3年(1598年)に催された醍醐の花見は、豊臣秀吉の最後の派手な行事となりました。 正室の北政所や側室たちを連れ、総勢1300人で花見をしたということですから、太閤秀吉の栄華がよくわかる話です。 また、秀吉は、応仁の乱(1467年)で、ほとんどの建物を失った醍醐寺を花見を機に再興し、世界遺産に登録されるほどのお寺にしています。 だから、醍醐寺にとって秀吉は大恩人なのですが、一方で、彼が催した醍醐の花見がきっかけとなって牢屋に入れられた人物もいました。 その人物は、江戸時代の絵師喜多川歌麿です。