江戸時代一覧

四条通にある円山応挙宅址の石碑

京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。 今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。 四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。 その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。

朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。 しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。 そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。 朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西本願寺近くにあった本圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ本能寺が宿所とされました。

保津川の開削で仕事を奪われた丹波の馬借

京都府亀岡市から保津川の急流を下る保津川下りは、観光客にとても人気があります。 その保津川は、古くから京都への物資の輸送に利用されてきました。 材木を筏に組んで嵐山の渡月橋付近まで流し、それを京都に運んで建築資材として使っていたんですね。 江戸時代初期の慶長9年(1604年)には、角倉了以(すみのくらりょうい)が、保津川の開削を計画し、さらに物資を輸送しやすくしました。

朝鮮通信使が宿泊した大徳寺

天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。

新町御池にある肥前鹿島鍋島藩屋敷跡の石碑

江戸時代、諸国の藩は京都に藩邸を持っていました。 京都は、江戸時代でも都でした。 天皇の御所もあり、文化や学問の中心でもあったため、各藩は京都に藩邸を持ち様々な情報を収集していました。 京都に藩邸を持っていたのは、福井藩、薩摩藩、土佐藩のような大きな藩だけではありません。 わずか2万石の肥前鹿島鍋島藩も京都に藩邸を持っていました。

京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。

廬山寺にある慶光天皇陵

京都市上京区に廬山寺(ろざんじ)というお寺があります。 廬山寺の境内の東には、光格天皇の父である慶光天皇(きょうこうてんのう)の陵があります。 光格天皇が即位したのは江戸時代後期のこと。 光格天皇の前の天皇は後桃園天皇だったのですが、後桃園天皇には男子がいませんでした。 そのため、後桃園天皇が崩御した後は、慶光天皇の男子であった光格天皇が即位することになりました。

宝暦事件のおかげで平安時代の姿が蘇った京都御所

京都市上京区の京都御所は、平安京ができてから、ずっと同じ場所にあり続けているわけではありません。 平安京の大内裏(だいだいり)は、現在の京都御所よりも西の二条城が建つ辺りにあったのですが、何度も火災に遭い再建されなくなりました。 京都御所が現在地に定まったのは元弘元年(1331年)のことで、仮の内裏とされていた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)で光厳天皇が即位して以降、明治2年(1869年)まで、天皇の住いとして使用されてきました。 したがって、現在の京都御所は平安時代の大内裏とは違います。 でも、現在の京都御所は、平安時代の印象を残しています。

清浄華院の法然上人御骨塔

8月下旬に京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)に参拝した後、少し北に建つ清浄華院(しょうじょうけいん)にも参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山に数えられる浄土宗のお寺です。 清浄華院には、年に数回お参りしますね。