興聖寺にある道元禅師と永井家の墓所

京都府宇治市にある興聖寺は、江戸時代の慶安2年(1649年)に江戸幕府の譜代大名である永井尚政が、万安英種を迎えて再興された曹洞宗のお寺です。

興聖寺は、血天井でも有名ですが、当寺に参拝した時には、境内の裏側の墓所にもお参りしたいですね。

京都府指定文化財の墓所

興聖寺には、京阪電車の宇治駅から南東に約10分歩くと到着します。

JR宇治駅からだと東に徒歩約15分です。

琴坂と呼ばれる参道を北に上っていき、その先の龍宮門をくぐって左に曲がると、墓所に行くことができます。

興聖寺の墓所は、山の斜面に造営されており、中央の階段部分と上段部分が京都府指定文化財となっています。

墓所

墓所

永井尚政が興聖寺を再興した際、当寺を永井家の墓所とし、父の直勝、母、尚政自信と彼の妻の墓塔を建立しました。

また、直勝の頌徳碑も建立し、現在も残っています。

石碑

石碑

説明書によると、墓所は、方形の平地が3段、ひな段上に造成され、上段に永井家墓所と興聖寺開山墓が一体となって形成されており、中・下段は藩士の墓域として形成され、現在も藩士の子孫を含む人々の墓地として使用されているとのこと。

興聖寺は、曹洞宗のお寺で、同宗は道元禅師が開いた禅の宗派です。

興聖寺の墓所の上段中央部は、興聖寺開山墓、興聖寺歴代住持墓、道正庵太祖、道正庵2代から6代の墓があります。

上段中央部

上段中央部

そして、両脇に直勝、尚政をはじめとする永井家歴代当主、直勝の妻、尚政の妻、尚政の子女の墓塔が建てられています。

墓所の上段

墓所の上段

興聖寺の墓所はとても立派なもので、江戸時代初期の永井家の隆盛がよく伝わってきます。

しかし、永井家は、4代尚長が増上寺で斬殺される事件が起こった後、大幅に減封となりました。

尚長以降の当主では、6代直亮、8代直温のみ当墓所に葬られていますが、どちらの墓塔の形式も尚長以前と比較すると簡素なものとなっています。

他にも、万安英種を尚政に紹介した鈴木重成など、永井家と興聖寺の双方とかかわりのある人物の墓塔もあるとのこと。

また、中央の石段の脇などにある石灯籠を寄進した尚政の8男の永井権左衛門とその係累の墓も建てられています。

永井家墓所は、後に被葬者の増加などで墓塔の配置の整備が行われたものの、造営当初からの基本構成は変わっていないようです。

宝篋印塔の形や大きさがそろっていること、興聖寺開山墓と一体的に整備されてるという特殊な構成であることから、永井家墓所は史跡として高い価値を有すると判断されているそうです。

興聖寺に参拝した時は、一度は、永井家墓所も見ておきたいですね。

なお、興聖寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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