江戸幕府によって城構えに改められた知恩院と金戒光明寺
京都市東山区の知恩院と左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、ともに浄土宗の本山であり、広々とした境内に豪壮な建物がいくつも建っています。 どちらも浄土宗の開祖の法然上人ゆかりの地ですが、現在の寺観になったのは江戸時代のこと。 徳川家の援助を受けて、境内が整備されたのですが、そこには、幕府の戦略的な意図があったとされています。
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京都市東山区の知恩院と左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、ともに浄土宗の本山であり、広々とした境内に豪壮な建物がいくつも建っています。 どちらも浄土宗の開祖の法然上人ゆかりの地ですが、現在の寺観になったのは江戸時代のこと。 徳川家の援助を受けて、境内が整備されたのですが、そこには、幕府の戦略的な意図があったとされています。
7月上旬。 京都市左京区の檀王法林寺(だんのうほうりんじ)に参拝しました。 檀王法林寺は、夏になると本堂前に置かれたハスが花を咲かせます。 また、6月から咲いたアジサイも、ぎりぎり見ごろを保っていそうです。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時を討伐するために挙兵した承久の乱は、上皇の敗北で終わりました。 その後、上皇は隠岐に流罪となり、延応元年(1239年)に帰京かなわず彼の地で崩御しています。 ということは、後鳥羽上皇の陵墓は隠岐にあるのだろうと思いますが、実は、京都市左京区の大原にあります。 一体どういう経緯で大原に埋葬されたのでしょうか。
京都市左京区の哲学の道沿いに建つ大豊神社は、仁和3年(887年)に宇多天皇の病気平癒のために創建された社。 主祭神として祀るのは、医薬の神として信仰される少彦名命(すくなひこなのみこと)です。 天皇の病を治癒する目的で創建した社ですから、治病健康にご利益がある神さまを祀ったのは納得。 ところで、少彦名命は、なぜ医薬の神さまとして崇敬されているのでしょうか。
5月15日に河原町丸太町に葵祭の路頭の儀を見に行った後、南東に約15分歩き、京都市左京区の要法寺(ようぼうじ)に参拝しました。 要法寺では、毎年、ゴールデンウィーク頃に清涼池でカモの雛が産まれます。 そのまま1ヶ月ほど要法寺で過ごした後、親子そろって鴨川に引っ越しする光景は、メディアでも取り上げられることが多いですね。 今回の参拝は、カモの雛とそろそろ咲き始めているサツキを見ることが目的です。
千年以上に渡り都が置かれた京都は、街の発展にともない経済的に重要な都市となっていきました。 経済発展した都市では、人や物の行き来が盛んになるもの。 しかし、京都は海に面しておらず、しかも、盆地であることから流通に難を抱え、他の都市との競争で遅れを取ってしまうとの危機感が持たれていました。 その解消のために利用が計画されたのが、隣県滋賀の琵琶湖。 江戸時代には、琵琶湖から京都に運河を造り、舟運で物資を輸送する案が何度も浮上しましたが、当時の土木技術では画餅に過ぎず実行に移されることはありませんでした。
室町時代に足利義政が造営した銀閣寺には、錦鏡池(きんきょうち)を中心とした池泉回遊式庭園が設けられています。 錦鏡池のほとりに建つ観音殿の銀閣は、黒っぽい外観のためか、水面に映る姿に落ち着きを感じます。 金閣寺のような派手さはないものの、いつまでも眺めていたくなる景色。 その錦鏡池を見ていると、たくさんの石で囲まれているのに気づくとともに、池の中にも所々に大きな石が置かれているのがわかります。 これらは、足利義政が洛中洛外から集めてきた名石です。
勅使門(ちょくしもん)。 それは、天皇の意思を伝えるための使者である勅使が出入りする門。 勅使を迎えるわけですから、勅使門を持つ寺院は皇室との関係が深いのは言うまでもありません。 そのような寺院は広い境内を有し立派なお堂が建ち並んでいることが多く、小さなお寺にはまず勅使門は建っていません。 今回の記事では、京都市内の勅使門を持つお寺をいくつか紹介します。
4月上旬に京都市左京区の哲学の道の花筏を見た後、南西に約10分歩き、南禅寺に参拝しました。 南禅寺も桜の名所として知られ、毎年この時期は混雑するのですが、今年は桜の散りが早く、そろそろ人が少なくなり始めている頃。 それでも、人気の観光名所なので無人ということはなさそうですが。
4月上旬に京都市左京区の金戒光明寺に桜を見に行った後、北に約3分歩き、真如堂(しんにょどう)にも参拝しました。 真如堂も桜の名所として知られたお寺なので、春に金戒光明寺を訪れた際は立ち寄りたいですね。