蛤御門の名前の由来

京都御苑の西側に蛤御門(はまぐりごもん)という門があります。

正式には、新在家御門といいます。

しかし、江戸時代のある時期から蛤御門と呼ばれるようになりました。

天明の大火で初めて開いた新在家御門

新在家御門は、普段は開けられることのない禁門でしたが、天明8年(1788年)の大火で初めて開けられました。

その様を当時の都の人々は、「焼けて口を開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ぶようになったのです。

当時の蛤御門は、現在地より東側に建っており、向きも今の西面ではなく南面していたとされます。

蛤御門の通称で呼ばれている新在家御門

蛤御門の通称で呼ばれている新在家御門

なお、近年は、天明の大火ではなく、宝永の大火(1708年)で蛤御門と命名されたといわれており、また、宝永以前にも「蛤門」の名称が使われていたことが文書で確認されています。

幕末の動乱で2度目の開門

蛤御門は、天明の大火の後、元治元年(1864年)7月にも開門しています。

この頃の京都は、長州藩などを脱藩した浪士たちがテロ行為を行っていました。

特に、この年は過激浪士たちが、京都を放火して天皇を長州に連れて行こうという計画を企てていました。

その計画を阻止したのが新撰組で、6月に放火計画を企てた浪士たちを捕えるために、彼らの隠れ家であった池田屋を襲撃しました。これが池田屋事件だったわけです。

この池田屋事件の報告を受けた長州藩士は怒り狂い、遂に兵を率いて上洛します。

長州兵は、伏見、山崎、嵯峨の三方向から進軍。

これを京都で迎え撃ったのが、会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍でした。

幕府軍は、長州藩から天皇を守るために御所を固めます。

そして、7月19日に幕府軍と長州軍との戦闘が始まりました。

京都の各所で戦闘が行われましたが、特に来島又兵衛率いる長州軍の攻撃がすさまじく、蛤御門付近で両軍の熾烈な攻防が繰り広げられました。

この時、長州兵が御所に向かって発砲したことから、長州藩は明治維新まで、朝敵(天皇の敵)とされます。

この戦闘は、幕府軍が長州藩を京都から追い出して終わりますが、幕府軍が長州兵の籠城した鷹司邸と河原町三条の長州藩邸を焼いたため、京都は大火災となりました。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の中では、焼失家屋は27,513軒と書かれており、火災の規模が広範囲に及んだことがわかります。その規模は、北は今の上京区の南の辺りから南は下京区の京都駅近くとされ、京都の町は戦闘から3日間燃え続けました。

当時の京都の人々は、この時の火災を鉄砲の音から「どんどん焼け」と言ったそうです。

また、この時の幕府軍と長州藩との戦闘を激戦地となった蛤御門に因んで「蛤御門の変」や「禁門の変」と言います。

今でも蛤御門には、その時の銃弾の跡が残っています。

蛤御門の変でついた弾痕と言われている穴

蛤御門の変でついた弾痕と言われている穴

蛤御門の変については、下のサイトで詳しく紹介されていますので、ご覧になってみてください。

  • 7月の歴史 激戦!蛤御門の変を追う!2012年5月13日追記:左記ページは閉鎖しています。
  • 「今日」元治元年7月19日:禁門の変(蛤御門の変)2013年7月24日追記:左記ページは閉鎖しています

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