清浄華院にある天明の大火の供養塔

1月中旬。

京都市上京区の清浄華院(しょうじょうけいん)に参拝しました。

清浄華院は、浄土宗四ヵ本山に数えられる浄土宗のお寺です。

清浄華院の西側に京都御苑があることから、京都御苑を散策する時にお参りすることが多いですね。

今回も、京都御苑を訪れる前に清浄華院に立ち寄りました。

新しく建てられた浄花稲荷社

清浄華院の最寄り駅は、地下鉄今出川駅です。

駅からは、東に徒歩約7分で、清浄華院に到着します。

京阪電車だと出町柳駅から西に徒歩約10分ですね。

境内の北西に建つ勅使門は、朝廷からの使者を迎えるための門です。

勅使門

勅使門

勅使門が開いているのを見たことがありません。

住職でさえ、晋山式の時にしかくぐることができない勅使門ですから、そうそう開いているところを見ることはできないのでしょう。

扉には菊の紋が入っていますよ。

参拝者は、勅使門の少し南に建つ総門から境内に入ります。

総門

総門

総門をくぐって左手に不動堂があるので、まずは中に入ってお参りをしましょう。

不動堂

不動堂

中には、大きなお不動さまがいらっしゃいますよ。

ちなみに清浄華院のお不動さまは、泣不動尊で有名です。

境内にある手水舎は、法然上人八〇〇年大遠忌を記念して再建されたものです。

華水 手水舎

華水 手水舎

手水舎の東隣には、平成22年(2010年)再建の鐘楼堂が建っています。

鐘楼堂

鐘楼堂

鐘楼堂も、法然上人八〇〇年大遠忌記念事業で再建されたものですが、釣られている梵鐘は慶長15年(1610年)に造られた歴史あるものなのです。

境内の中央に建つ大殿には、法然上人の御影が祀られています。

大殿

大殿

清浄華院は、貞観2年(860年)に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により、四宗兼学道場として禁裏内に創建したのが始まりですが、後に法然上人が浄土宗に改めました。

大殿の前には、山王権現社と浄花稲荷社が建っています。

山王権現社(左)と浄花稲荷社(右)

山王権現社(左)と浄花稲荷社(右)

以前は、山王権現社しかなかったのですが、いつの間にかお稲荷さんも隣に祀られていました。

朱色の鳥居の後ろに平成30年(2018年)9月28日に建立されたことが書かれています。

江戸時代中期から稲荷社は祀られていたそうですが、山王権現社とともに後に廃され、平成29年に再興されたのだとか。

ということは、朱色の鳥居は後から建てられたのですね。

天明の大火の犠牲者のお墓

大殿の南に建つのは、大方丈です。

大方丈

大方丈

中には、阿弥陀三尊像が本尊として祀られています。

こちらは、大殿の左前にある「焼亡横死百五十人之墓」です。

焼亡横死百五十人之墓

焼亡横死百五十人之墓

天明8年(1788年)1月29日未明に鴨川東宮川町団栗厨子(どんぐりずし)の空き家から火が出ました。

現在の京阪電車の祇園四条駅から少し南の鴨川に架かる団栗橋の近くですね。

火はあっという間に鴨川の西側にも飛び、現在の京都市中心部がほぼ全焼する大火事に発展しました。

当時の洛中の家屋が約4万軒で、そのうち3万6千軒が焼失したのですから、家屋の9割が焼けたことになります。

火は、京都御所も襲い、この時初めて新在家御門が開かれたことから、蛤御門(はまぐりごもん)と呼ばれるようになりました。

天皇は下鴨神社に避難しましたが、御所炎上で還御が不可能となり、聖護院(しょうごいん)に仮御所を置きました。

また、仙洞御所は青蓮院(しょうれんいん)、女院御所は修学院竹内宮御殿、女一宮は妙法院に置かれました。

この火災は、天明の大火と呼ばれ、大島家文書によると死者は150人とされています。

しかし、9割の家屋が焼失したにしては死者の数が少なすぎます。

伊藤氏所蔵文書では1,800人余と記載されていますし、清浄華院の日鑑でも2,600人という風聞が記録されていることから、150人よりも遥かに多くの人が犠牲になったと推測できます。

それにしても、天明の大火の焼亡地域の広さには驚かされます。

北は鞍馬口通、南は七条通の手前、西は千本通近くまでですから、現在の上京区、中京区、下京区のほぼ全域が焼失したことになります。

鎮火は2月2日未明という説があります。

5日間も町が燃え続けたのですから、大火災だったことは容易に想像できます。

大方丈の近くには、小さな仏像が置かれていましたよ。

小さな仏像

小さな仏像

なお、清浄華院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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