「下京区」一覧

堀川通や御池通は戦時中の強制疎開で広くなった

京都市は空から見下ろすと碁盤の目のようになっているのがわかります。 これは、南北の道路と東西の道路が、何本も交わっていることが理由。 ただ、道路の幅は、どれも同じではなく、広い道路もあれば狭い道路もあり必ずしも均整がとれているとは言えません。 また、路地や辻子などもあちこちにあるので、完全な碁盤の目でもありません。 京都市内で、特に道幅が広い道路は、堀川通、御池通、五条通ですが、かつては、今ほどの広さはありませんでした。 これらの道路が広くなったのは、戦時中の強制疎開が理由です。

洪水で何度も流された四条大橋が日常生活に必要不可欠な橋になるまで

鴨川に架かる四条大橋は、そこにあることが当たり前になっていますが、昔は、橋が架かっていたり架かっていなかったりということが幾度もありました。 架かっていた橋がなくなる原因のほとんどは洪水。 四条大橋は何度も流失し、架け替えが繰り返されてきたのです。

西本願寺にある広隆寺の梵鐘

京都市下京区に建つ西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山ということもあり、境内は広く、様々な文化財も保存しています。 それら文化財の中には、かつて、右京区の太秦(うずまさ)に建つ広隆寺で使われていた梵鐘もあり、重要文化財に指定されています。

扇屋が軒を連ねた五条大橋たもとにたたずむ扇塚

夏の暑さを乗り切るために冷房は欠かせない存在になっていますが、それがなかった時代は、うちわや扇子でパタパタと仰ぎ、体に涼風を送るのが当たり前でした。 現代でも、夏場にうちわや扇子を仰ぎながら歩いている人をよく見かけます。 特に京都は、扇子を扱っているお店がいくつもあるためか、他の地域より扇子の割合が高いように感じられます。 その扇子、かつては五条大橋のたもとで、たくさん作られていたという。

二帖半敷町は五条寺を分割したのが由来

京都市下京区の四条烏丸の交差点から烏丸通を南に200メートルほど歩いた場所は、二帖半敷町(にじょうはんじきちょう)という町。 しかし、二帖半敷町を町名で呼ぶ人はまれ。 いや、二帖半敷町以外も、町名で呼ばれることが少ないのが京都の特徴です。 だいたい南北の通りと東西の通りで、その場所を指すことが多く、北は綾小路通、南は仏光寺通に挟まれた二帖半敷町は、烏丸通綾小路下ルや烏丸通仏光寺上ルなどという方が馴染みがあります。 その二帖半敷町ですが、町名の由来は五条寺にあると伝えられています。

不明門通の由来は平等寺の閉ざされた正門

京都には難読地名がいくつもあり、下京区の不明門通もその一つ。 普通に読めば「ふめいもんどおり」ですが、勘の良い人はそのまま読むのはまちがいと気づき、「あかずのもんどおり」と答えるかもしれませんね。 でも、それも違います。 「不明門通」は、「あけずどおり」と読みます。 ところで、その不明門通は、なぜこのような名になったのでしょうか。

近接する上徳寺と市比売神社はともに子授けと安産のご利益を授けてくれる

五条大橋を西に渡り、河原町通を超え富小路通で南に曲がると、お寺や神社が密集しています。 商業ビルが建ち並ぶ五条通から富小路通に入れば、京都はどこに行っても寺社だらけと言われるのを実感します。 さて、この界隈には、上徳寺と市比売神社(いちひめじんじゃ)が建っており、どちらも子授けと安産のご利益を授けてくれると信仰されています。 どちらを祈願するにしても、同じご利益を授けてくれるお寺と神社が近くにあるのは参拝者にとって手間が省けてありがたい。

本圀寺跡から出土した僧名が墨書された陶磁器

堀川五条の交差点から堀川通を北に約100メートル歩き、万寿寺通を西に曲がると、「南無妙法蓮華経」と刻まれた背の高い題目碑が立っています。 ここは、かつて本圀寺(ほんこくじ)があった場所。 当寺は、昭和44年(1969年)に山科に移転し、その跡地には、一部にお寺が見られるものの、商業ビルやマンションが建ち並び日蓮宗の大本山がここにあったとは想像できない景観になっています。 この本圀寺跡ですが、昭和60年に平安博物館による発掘調査が行われた際、僧名が墨書された陶磁器が多数出土しています。

後醍醐天皇の道案内をして名付けられた命婦稲荷神社

京都市下京区に命婦稲荷神社(みょうぶいなりじんじゃ)という神社が建っています。 境内が狭く、社殿も小さめで、どこにあるのか探すのもちょっと大変。 そのためか、命婦稲荷神社と聞いても、「そんな神社あったっけ?」とすぐに思いつかない人が多そうです。 でも、鉄輪(かなわ)の井戸と聞くと、「あそこね」と思い出す人は少なくないのでは。