空也供養が語源と伝わる膏薬辻子

地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅から四条通を西に3分ほど歩き、新町通と西洞院通のちょうど真ん中くらいにやって来ると、南に向かって延びる細い道が現れます。

この細い道は、膏薬辻子(こうやくのずし)と呼ばれています。

何やら、打ち身や捻挫に効きそうに思える道ですが、それらの治療をしてくれる医療機関が密集しているとか、ドラッグストアが軒を連ねているとかいった意味で、その名が付いたのではありません。

辻子と路地

辻子(ずし)は図子とも書き、京都では、家と家の間にできた細い道をいいます。

辻子に似た細い道に路地(ろーじ)もあります。

平安京は、碁盤の目に道が造られており、基本的に町は正方形に区画されていました。

商業が発達してくると、商人たちは、道に面するようにお店を立て始めたわけですが、そうすると、どうしても、正方形の中心部分が空き地となってしまいます。

そこで、その空き地にまた道を作ってお店を建てるということが行われるようになりました。

そうやってできた細い道が、辻子や路地です。

時に辻子や路地は、大きな武家屋敷や寺院が移転した時に突如できた空き地に新たな建物を建てた結果、出現することもありました。

辻子や路地は、ともに同じようにしてできたものですが、辻子は隣の通りまで突き抜けているのに対して、路地は途中で行き止まりとなっており、「コ」の字型に家が建っている点で異なっています。

京都市内を散策する際、近道をしようと細い道に入ったら路地だったなんてことは、よく経験しますね。

平将門の霊を鎮めたら膏薬辻子になった

下の写真に写っているのが、膏薬辻子です。

四条通からみた膏薬辻子

四条通からみた膏薬辻子

上は、四条通から南向きに撮影した写真ですが、この道を歩いていくと、途中で西に曲がり、そして、再び南へと続き、綾小路通にぶつかります。

膏薬辻子の入り口に説明書があったので、読んでみましょう。

この付近は、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまで、膏薬辻子が地域の名称だったそうで、平安時代には、皇后を何代も輩出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅・四条宮があった場所とのこと。

そして、踊念仏で知られる空也上人が天慶元年(938年)に道場を設けて念仏修行を始めたのもこの地だったそうです。

天慶3年。

天慶の乱を起こした平将門の首が京都の町で晒されると、各地で天変地異が相次ぎました。

当時は、天変地異は怨霊の仕業と信じられていたので、きっと、この天変地異は平将門の怨霊の仕業に違いないと考えられ、各地で彼の霊を鎮めるための首塚が築かれました。

そして、京都でも、空也上人が道場の一角に塚を建てて供養し、当地は、空也供養の道場と呼ばれるようになります。

この空也供養(くうやくよう)の発音がなまり、膏薬辻子と呼ばれるようになったのだとか。

なんか強引だなと思ったのではないでしょうか。

空也は、一般的に「くうや」と呼ばれており、これがなまって「こうやく」となったというのは、ちょっと無理がありそうですよね。

でも、空也がなまって膏薬になったとする説は正しいのではないかと思います。

その理由は、空也は、「こうや」とも呼ばれていたからです。

「こうや」が「こうやく」になったとするのなら、強引な感じはしませんし、空也供養を「こうやくよう」と読めば、後ろの「よう」を省略して「こうやく」と呼ばれるようになったとしても違和感はないですね。

そして、膏薬辻子の語源が、空也供養だとするなら、当時は、空也を「こうや」と発音するのが一般的だったのかもしれません。

毎年7月になると、この付近は祇園祭の山鉾が建ち並び賑やかになります。

祇園祭を見に来た際は、膏薬辻子を歩いてみてはいかがでしょうか。

また、膏薬辻子から北西に約5分歩くと、空也堂と呼ばれる光勝寺もありますが、こちらは、普段門を閉ざしているのでお参りできません。

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