会津藩士柴司の切腹に発展した明保野亭事件

京都市東山区の三年坂には、立派な枝垂れ桜が植えられています。

その枝垂れ桜があるのは、明保野亭(あけぼのてい)というお店です。

春の観光シーズンともなれば、三年坂を通る人は、必ずと言っていいほど、この枝垂れ桜の前で立ち止まり、その美しく咲いた姿に見とれていますね。

そんな旅行者や観光客に人気の明保野亭ですが、幕末の元治元年(1864年)に会津藩士の柴司(しばつかさ)が切腹するにいたった明保野亭事件が起こっています。

長州系浪士の捕縛に向かう会津藩士と新撰組

文久3年(1863年)の八月十八日の政変で、京都政界から追い出された長州藩は、その巻き返しを図ろうと藩士たちが密かに京都に潜伏していました。

しかし、京都では、長州藩士たちの取り締まりが厳しく、新撰組や会津藩もまた長州藩士たちを捕縛するため、日々活動していました。

そんな中、元治元年6月5日に起こったのが池田屋事件でした。

池田屋に潜伏していた長州藩士、その他の長州藩に味方する土佐の脱藩浪士たちが新撰組の襲撃を受け、彼らの京都に火を放って孝明天皇を連れ去るという計画は未然に防がれました。

その後、長州藩士の取り締まりはさらに厳しくなり、会津藩と新撰組は、東山の高台寺境内にある明保野亭に数人の長州藩士が潜伏しているとの情報を得ます。

会津藩は、柴司や辰野勇(たつのいさみ)など10名が、沖田総司を筆頭とする新撰組隊士たちと明保野亭に向かいました。

春の明保野亭

春の明保野亭

総勢20名で、明保野亭を取り囲み、柴司が中に入って御用改めをします。

すると、中にいた1人が逃げ出したため、柴司は槍で突きました。

槍で突かれた方は、「人違いだ。拙者は土佐藩の麻田時太郎だ」と名乗ったものの、すでに大けがをしていました。

柴司の切腹

土佐藩邸に戻った麻田時太郎は、後ろから槍で突かれたことから、卑怯にも逃げようとしたということで切腹させられます。

一方、会津藩では、麻田時太郎を傷つけたことから、藩医を差し遣わし、見舞いさせましたが、土佐藩側で、士道に背き傷を負った者には医薬を与えないことになっているとして断られました。

そして、土佐藩は、会津藩に対し、このような事件が起こった以上、新撰組の屯所を襲撃して皆殺しにすると言い出しました。

これに対して、会津藩では千葉次郎が間に入って、何とか丸く治めようとしますが、土佐藩が承知しなかったため、土佐藩邸の一室を借りて切腹します。

さすがに土佐藩としても、これ以上我を張り続けるべきではないと判断し、交渉を打ち切ることにしました。

これで一件落着かに思えましたが、事件の当事者である柴司は、事件の責任を負って切腹します。

その介錯にあたったのは、兄の外三郎でした。

会津藩は、柴の切腹を土佐藩に直ちに知らせると、土佐藩からも後に会津藩に使者が遣わされ、これで両藩の関係は悪化することなく、無事に解決しました。

明保野亭事件はいつ起こったのか?

さて、柴司の切腹に発展した明保野亭事件ですが、会津藩士や新撰組が明保野亭を襲撃した日は、新撰組隊士の島田魁(しまだかい)日記によれば、元治元年の6月10日となっています。

一方で、子母澤寛の『新撰選組始末記』では、同年9月となっています。

どちらが正しいのかはわかりませんが、ネット上では6月10日としているものが多いですね。

なお、明保野亭は、事件があった時は、現在より北東にあったようです。

追記

明保野亭の枝垂れ桜は、2024年4月23日に倒れました。

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