形式を変えながら存続する祇園祭は京都の町や文化を象徴している

令和2年(2020年)と令和3年は、新型コロナウイルスの影響で、祇園祭は規模を縮小して行われることになりました。

祇園祭は、貞観11年(869年)に全国的に疫病が流行したことから、それを鎮めるために祇園会(ぎおんえ)として行われたのが始まりです。

以来、今日まで祇園祭は続いていますが、その形式は時代によって変化し、時には中止となることもありました。

なので、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して行われる祇園祭もまた、長い歴史の中で見ると、時々起こる祭りの変化のひとつと言えそうですね。

御霊信仰から生まれた祇園祭

祇園会が誕生した平安時代は、天変地異は、この世に未練を残し非業の死を遂げた人々の怨霊によってもたらされると考えられていました。

これを御霊信仰(ごりょうしんこう)と言います。

怨霊が疫神(えきしん)となって疫病を振りまいていると考えた当時の人々は、それらの荒ぶる霊魂を1ヶ所に集めて慰めることにより、災厄がもたらされないようにしたのです。

貞観11年は、都を中心に全国的に疫病が流行した年でした。

この疫病の流行は、牛頭天王(ごずてんのう)の疫神の祟りだと考えた祇園社司卜部日良麻呂(うらべひらまろ)は、勅を報じて、当時の国の数に合わせて66本の鉾を神泉苑に立て、疫病退散の神事を催しました。

これが祇園会の始まりですが、遡る貞観5年に神泉苑で初めて御霊会が行われています。

次第に祭りは派手になっていく

当初の祇園会は、割と簡素な祭りでした。

でも、祇園会が疫神を喜ばせることを目的としていたことから、次第に祭りの内容が派手になっていきました。

現在の祇園祭では当たり前となっている山鉾も、祇園会が始まったころは存在しておらず、南北朝時代から室町時代に登場したものです。

山鉾建て

山鉾建て

7月になると、四条通で聞こえる祇園囃子も、かつてはありませんでした。

室町時代に風流(ふりゅう)と呼ばれる華美な山車(だし)、囃子物、歌踊などが流行し、それらも祇園会に取り込まれていきます。

現代の時代祭では、当時の風流踊りを再現した行列を見ることができますね。

神輿と御旅所

祇園社に祀られていたのは、牛頭天王とその妻の頗梨采女(はりさいにょ)、そして、子供たちの八王子でした。

3柱の祭神は、旧暦6月7日の神幸祭で神輿に乗り、御旅所へと向かいました。

かつて、祇園社の御旅所は、大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)の2ヶ所ありました。

3基の神輿のうち2基は大政所御旅所へ、そして、もう1基の神輿は少将井御旅所に渡御し、旧暦6月14日の還幸祭で、神輿は再び祇園社に還御しました。

現在の御旅所は、四条寺町の1ヶ所だけとなっていますが、これは、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が2ヶ所の御旅所を四条寺町に移してきたことが理由です。

現在の祇園祭では、7月17日の神幸祭で3基の神輿が御旅所に渡御し、同月24日の還幸祭で八坂神社に戻ります。

御旅所の神輿

御旅所の神輿

明治時代に祇園社は八坂神社と改称され、祭神も仏教色が強い牛頭天王は廃され、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)となりました。

また、祇園会も祇園祭と呼ばれるようになります。

山鉾巡行の歴史

祭礼の中心となるのは神輿渡御ですが、現代の祇園祭では、山鉾巡行が最も注目を集め、祇園祭と言えば山鉾巡行を思い浮かべる人が多くなっていますね。

祇園会に鉾や山が登場するようになったのは、文献上では14世紀初頭なので、鎌倉時代の終わりころの祇園会では鉾や山を見ることができたのでしょう。

南北朝時代になると、山鉾巡行が祭りを賑わすことになりますが、その経済的支えになっていたのは、下京の富裕な商人たちでした。

もともとは、神輿渡御のおまけであった山鉾巡行ですが、山車を大きくしたり、装飾を豪華にしたりと徐々に派手になっていきます。

室町時代に入ると、山鉾巡行は、さらに華美になり、祇園社の神事とは独立し始め、町衆が主導するようになりました。

山鉾の装飾の豪華さ、意匠の個性は、町衆の経済力や文化水準の高さを象徴するものだったのでしょう。

現代の派手な山鉾巡行の原型は、室町時代に成立したものと言えます。

山鉾巡行

山鉾巡行

祇園祭が八坂神社の祭礼であるのに山鉾が八坂神社の前を通らないのも、下京の町衆の主導で山鉾巡行が行われていることを表しているのかもしれませんね。

祇園会は、応仁の乱(1467年)によって33年間中止となりましたが、明応9年(1500年)に復興すると、前祭(さきまつり)に26基、後祭に10基の山鉾が巡行しました。

この形での山鉾巡行が現代の祇園祭にも受け継がれています。

また、山鉾巡行は、応仁の乱以外にもたびたび中止となっており、戦時中の昭和18年(1943年)からの4年間も中止となっています。

現在の巡行路は、前祭が四条烏丸、四条河原町、河原町御池、烏丸御池の順となっており、後祭はその逆に進みます。

この巡行路となったのは、昭和36年からで、それ以前は、四条烏丸、四条寺町、寺町御池、烏丸御池の順に進んでいました。

しかし、この巡行路も昭和31年に変更されたもので、それ以前は、四条烏丸、四条寺町、寺町松原、松原東洞院の順に四条通より南を巡行していました。

昭和41年(1966年)から平成25年(2013年)まで、前祭と後祭の区別が廃止され、山鉾巡行は7月17日にまとめて行われるようになります。

これは、観光客に配慮したものです。

その後、平成26年に49年ぶりに後祭が復活となり、山鉾巡行は7月17日と24日の2回行われるようになっています。

祇園祭は、京都の伝統行事ですが、その形式は時代によって様々に変化してきました。

京都は、古いものを伝承し続ける印象が強いですが、昔と同じ姿でずっと続いているわけではありません。

祇園祭のように時代に合わせて変わりながらも続いているものが多く、昔のまま存続し続けているものは意外と少ないです。

祇園祭が京都を代表する行事と言われるのは、その存続の仕方が、まさに京都の町や文化のように時代に合わせて変化しながら存続し続けていることによく似ているからなのかもしれませんね。

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