梁川星巌の鴨沂小隠跡を示す梁川星巌邸址碑

安政5年(1858年)に江戸幕府が、尊王攘夷を唱える志士たちを次々と捕らえる安政の大獄が起こりました。

最初に捕縛されたのは梅田雲浜で、他に頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らも捕らえられました。

この時、梁川星巌(やながわせいがん)も捕らえられる予定でしたが、当時流行していたコレラにかかって死亡していたため捕縛を免れました。

川端通沿いに立つ梁川星巌邸碑

京都市左京区の京阪電車神宮丸太町駅を出て川端通を北に少し歩くと、駐車場の一角に梁川星巌の邸跡を示す石碑が立っています。

川端通

川端通

ここは、梁川星巌が、かつて8年間暮らした鴨沂小隠(おうきしょういん)の跡地です。

石碑の近くに説明書があるので、読んでみましょう。

梁川星巌邸

梁川星巌邸

梁川星巌は、寛政元年(1789年)に美濃国八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市)に郷士稲津家の長男として生まれました。

幼少の頃から、華渓(かけい)寺の太随(たいずい)和尚について学問に励み、12歳の時に両親が相次いで病死すると、家督を弟にゆずり、江戸に出て山本北山(やまもとほくざん)の塾に入門します。

その後、大垣に戻った梁川星巌は、梨花村草舎(りかそんそうしゃ)を開いて、子弟の教育に打ち込みます。

その時の弟子の中に後に妻となる紅蘭(こうらん)もいたとのこと。

紅蘭と結婚した後は、夫婦で西国を旅し、多くの文人墨客と交わります。

そして、44歳の時に江戸に出て天保5年(1834年)に私塾玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)を開き、漢詩人として名を高めました。

江戸では、佐久間象山や水戸の藤田東湖らと国の将来を議論し、弘化2年(1845年)に大垣に戻って白鴎社(はくおうしゃ)の人々と詩会を催したり、小原鉄心(おはらてっしん)らと国事を談じたりしました。

京都に移住してきたのは58歳の時で、尊王攘夷を唱え、梅田雲浜、西郷隆盛、頼三樹三郎らと活動します。

この頃に南朝の史跡を懐古し詠んだ吉野懐古が有名で、勤王詩人としてのイメージを確立したとのこと。

駐車場

駐車場

しかし、このような梁川星巌のイメージが、安政の大獄の標的となったわけですね。

梁川星巌は、安政5年9月2日に東三本木の老龍庵(ろうりゅうあん)でコレラにかかり亡くなります。

幕府に捕らえられる前に亡くなったことは、彼にとって、むしろ良かったのかもしれません。

梁川星巌邸址の石碑は、川端通を北から南に歩いていると、駐車場の壁に隠れて全く見えません。

神宮丸太町駅を出て、歩道の東側を南から北に向かって歩けば、石碑と説明書を見落とすことはないでしょう。

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