京都での安政の大獄の拠点・間部詮勝寓居跡

安政5年(1858年)に起こった弾圧事件、世に言う安政の大獄では、将来を嘱望された人材が幕府に捕えられ、次々と処刑されました。

安政の大獄というと、彦根藩出身の幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)が行った弾圧として知られていますが、その時の老中であった間部詮勝(まなべあきかつ)も重要な役割を果たしていました。

日米修好通商条約の調印

嘉永6年(1853年)のペリー来航以降、日本は、これまでの鎖国政策を改め、開国することになります。

翌年には、日米和親条約が結ばれ、その後、幕府は、アメリカから日米修好通商条約の調印を迫られます。

文明の大きな違いから、幕府はアメリカの要求を退けることは困難と考えていたので、条約を調印するつもりだったのですが、思いのほか国内の反対が強く、その説得に老中堀田正睦(ほったまさよし)があたっていました。

堀田正睦は、開国反対派を納得させるためには、開国に孝明天皇の許しを得ることが重要だと考えます。

そうすれば重大な決断を自分一人で決めるという重圧から解放されますし、孝明天皇の許しを得れば、開国反対派も納得すると思っていたからです。

天皇の許しを得るのは、形式的なものだから簡単だろうと思っていたのですが、なかなか天皇が首を縦に振ってくれません。

それもそのはず、実は、天皇を裏から操っている者たちがいたのです。

裏で糸を引いていたのは、薩摩藩や水戸藩などで、彼らは、この難局を乗り切るためには、14代将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を立てるべきだと主張していました。

その主張を幕府が受け入れたら、孝明天皇も開国を許すという条件を幕府に突き付けたわけです。

しかし、この主張に真っ向から反対したのが、井伊直弼でした。

井伊直弼は、大老に就任すると、政治に朝廷が口出しするものではないとして、孝明天皇の許しを得ずに日米修好通商条約を調印し、堀田正睦を天皇から開国の許しを得ることができなかったことを理由に老中を罷免しました。

反対派の弾圧のため京都に間部詮勝を派遣

この井伊直弼の政策に世論は反発、方々で、天皇を敬い外国人を日本から追い出せという尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛んになりました。

尊王攘夷運動は、幕府にとって邪魔でしかありません。

そこで、井伊直弼は、安政5年9月に越前鯖江藩主の間部詮勝を老中にして、京都に派遣し、反対派の弾圧を行わせました。

最初に捕えられたのは、小浜藩士の梅田雲浜(うめだうんぴん)で、これが安政の大獄の始まりでした。

この弾圧では、長州藩士の吉田松陰や越前福井藩士の橋本左内(はしもとさない)なども捕えられ、後に処刑されています。

また、間部詮勝は、朝廷にも働きかけ、天皇の開国の許しを得ることにも成功しました。

間部詮勝が京都に滞在していたのは半年ほどで、現在、京都市中京区の駐車場の一角に彼の寓居跡の石碑が立っています。

間部詮勝寓居跡

間部詮勝寓居跡

ここには、昭和42年(1967年)まで、妙満寺というお寺が建っていました。

妙満寺は、雪月花の三名園のひとつに数えられる雪の庭があることで有名で、現在は左京区の岩倉に移っています。

間部詮勝が、当時、雪の庭を鑑賞しながら、尊王攘夷派の捕縛の命を下していたのかどうかは定かではありません。

その後、間部詮勝は、井伊直弼と安政の大獄で捕えた罪人の処分を巡って対立したため、老中を罷免されています。

なお、間部詮勝については、福井県鯖江市のホームページの「先人を偲ぶ -間部 詮勝-」のページで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。

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