岩瀬忠震が宿所とした瑞泉寺

安政元年(1854年)3月3日に幕府は、日米和親条約に調印し、4月5日にそのことを朝廷に奏上しました。

その後、安政3年7月にアメリカ総領事ハリスが下田に着任すると、日米通商条約の締結を要請してきました。

この時、交渉全権に就任したのが、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直です。

積極開国論

老中の堀田正睦(ほったまさよし)はじめ、岩瀬忠震ら幕府の中堅役人層は、国際情勢を考え、これからは日本も欧米諸国が主導する国際関係の中に入るべきだとする積極開国論の方針を採りました。

そこで、日米修好通商条約の調印に先立ち、堀田正睦らは上洛して、孝明天皇の勅許を得ることにします。

その時、堀田正睦は寺町の本能寺、川路聖謨(かわじとしあきら)はそこから少し南の天性寺、そして、岩瀬忠震は木屋町三条の瑞泉寺を宿所としました。

下の写真は、安政5年正月に岩瀬忠震が宿所とした瑞泉寺の山門です。

瑞泉寺の山門

瑞泉寺の山門

山門の近くには、ここが岩瀬忠震の宿所だったことについての説明書が設置されてあったので読んでみることに。

堀田正睦と岩瀬忠震は、関白九条尚忠らに対し、世界の大勢を説き、「開国」が必然であることを力説して、勅許を降されるように求めました。

しかし、欧米諸国を野蛮な国々と考えていた朝廷は、3月20日に勅許を与えることはできないと回答します。

堀田正睦は、政治のことは幕府に一任されていることから、すんなりと勅許を得られると考えていましたが、朝廷から脅しに屈して条約を締結すべきではないと指摘されてしまったのです。

将軍継嗣問題

一方、幕府は、13代将軍の徳川家定に実子がなかったため、その跡継ぎを決める必要もありました。

暗愚な家定では、諸外国と交渉することはできないと考えていた越前の松平慶永や薩摩の島津斉彬は、英邁な一橋慶喜を次期将軍とすべきだと思っていました。

そこで、両藩は、一橋慶喜を将軍の後継ぎに指名してもらうため、内々に勅書を降してもらうよう政治工作を行っていました。

岩瀬忠震もこれと同じ考えであり、松平慶永の家臣の橋本左内と3月24日に瑞泉寺で面会しています。

条約調印の勅許を得られなかったため、ただちに江戸にもどった岩瀬忠震と堀田正睦でしたが、徳川家定は、井伊直弼を大老に任じて積極開国論に賛同しない方針を示します。

そして、次期将軍も、紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ/後の家茂)とする意思を固めていました。

安政5年6月19日。

大老の井伊直弼は、ハリスの強い要請により、やむを得ず勅許を得ないまま、日米修好通商条約の調印を認め、岩瀬忠震と井上清直は、神奈川沖に停泊していたポーハタン号の船上で、条約に調印しました。

左遷

岩瀬忠震は、朝廷に一橋慶喜を次期将軍とする代わりに条約調印を認めてもらおうと考えていましたが、井伊直弼が勅許を得ないまま条約調印を認めたことから、彼の構想は実現しませんでした。

それどころか、将軍継嗣問題に口を挟んだことを理由に作事奉行に左遷され、安政6年8月には、それも罷免されました。

その後、隅田河畔の隠居所で鬱々とした日を送り、文久元年(1861年)7月11日に病死しました。

岩瀬忠震宿所跡の石碑

瑞泉寺の門前には、ここが岩瀬忠震の宿所跡であったことを示す石碑が立っています。

目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡

目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡

同じ石碑には、「福井藩士 橋本左内訪問之地」とも刻まれており、岩瀬忠震と橋本左内がここで面会したことが示されています。

福井藩士 橋本左内訪問之地

福井藩士 橋本左内訪問之地

石碑が建立されたのは、令和元年(2019年)5月1日ということですから、令和に改元された日に建てられたんですね。

令和元年五月一日 慈舟山瑞泉寺建立

令和元年五月一日 慈舟山瑞泉寺建立

瑞泉寺は、豊臣秀次ゆかりのお寺として知られていますが、今後は、日米修好通商条約の調印と関係があるお寺としても認知されていきそうです。

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