安政の大獄で捕縛され六角獄舎で亡くなった近藤正慎の石碑・清水寺

京都市東山区の清水寺を拝観し、境内を巡って出口に近づこうかというところに2つの茶屋があります。

1軒は舌切茶屋、もう1軒は忠僕茶屋といいます。

春と秋の行楽シーズンでは、どちらの茶屋も人が多く大変賑わっていますね。

今は、観光客が、歓談しながら、お茶を飲んだり食事をしたりしている舌切茶屋と忠僕茶屋ですが、2つの茶屋が清水寺で営業を始めたのは、幕末の安政の大獄と関係しています。

安政の大獄の始まり

嘉永6年(1853年)に浦賀に黒船が来航して以来、幕府は、鎖国を続けるか開国するか、重大な決断を下さなければなりませんでした。

このような重大な問題は、朝廷の意見も聞くべきだと水戸藩の徳川斉昭らが主張したのですが、時の大老井伊直弼は、彼らの言葉に耳を傾けず、孝明天皇からの許し(勅許)を得ずにアメリカと条約を調印します。

これを知った徳川斉昭らは怒って江戸城に押しかけました。

しかし、これは不時登城にあたります。

不時登城は、やってはいけない決まりになっていたので、幕府は、徳川斉昭らを謹慎処分にしました。

これで一件落着かと思われたのですが、朝廷から幕政改革をするようにとの密勅が水戸藩に下される話が浮上します。

ここで、かつてから交友があった清水寺の成就院の僧月照と薩摩藩の西郷隆盛が動き出します。

西郷隆盛は、水戸藩が幕政改革に乗り出す意思があるのかを確かめるため、公卿の近衛忠煕(このえただひろ)の密書を携え、江戸へ向かいました。

しかし、幕府の警戒が厳しかった水戸藩邸に近づけなかった西郷隆盛は、しばらくして京都に戻ることになります。

その間、朝廷は水戸藩に密勅を下していました。

しかし、幕府は、京都での諜報活動により、公卿や志士たちが不穏な動きをしていることに気づきます。

そして、安政5年(1858年)9月に梅田雲浜が逮捕されたことで、安政の大獄が始まりました。

舌を切って自害した近藤正慎

幕府の追手は、月照と西郷隆盛にも迫ります。

西郷隆盛は、同じ薩摩藩士の有村俊斎(海江田信義)とともに月照とその下男であった重助を薩摩に逃がす手はずを整えます。

この時、西郷隆盛らが船で京都から離れるのを伏見で見送ったのが、近藤正慎(こんどうしょうしん)でした。

近藤正慎は、独朗という僧で、月照とともに成就院の蔵海上人のもとで修業をしていました。

しかし、女犯(にょぼん)の罪を犯したことで寺を去り、修験者として諸国を放浪することになったと高野澄さんの著書『京都の謎 幕末維新編』に記されています。

後に月照が成就院の住職となった時、独朗は寺侍に迎えられ、名を近藤正慎と改めました。

近藤正慎は、その後、月照が保管していた機密書類を焼き捨てたのですが、幕府に捕らえられ六角獄舎で拷問を受けました。

どんなに拷問を受けても、口を割らなかった近藤正慎は、餓死を決意します。

しかし、餓死することができなかったので、獄舎の壁に頭を叩きつけ、舌を噛み切って自害しました。

清水寺の北総門付近に3つの石碑が並んで立ち、少し離れたところにもう一つ石碑が置かれています。

この一角は、月照信海両上人遺蹟であることが、近くの石柱に記されています。

月照信海両上人遺蹟

月照信海両上人遺蹟

上の写真の中央にあるのが、月照の辞世の句を刻んだ石碑です。

そして、左側が月照の弟の信海の辞世の句が刻まれた石碑です。

右側の石碑には、月照の十七回忌のときに西郷隆盛が作った漢詩が刻まれています。

月照は、西郷隆盛とともに幕府の追手から逃れられないと覚悟し入水自殺をしています。

そして、弟の信海も幕府に捕らわれ、江戸の伝馬町の牢内で病死します。

西郷隆盛は、運良く生き延び、明治維新を実現していますね。

3つの石碑の右の方にぽつんと置かれた石碑が近藤正慎のものです。

石碑には、「贈従五位近藤正慎之碑」と刻まれています。

贈従五位近藤正慎之碑

贈従五位近藤正慎之碑

近藤正慎には、きぬという妻と2人の男の子がいました。

きぬたちは、安政の大獄のほとぼりが冷めると、清水寺の境内で茶屋を営むことを許されます。

茶屋の名は、当初は清閑亭といったそうです。

清水寺から南に15分ほど歩いたあたりにある清閑寺には、西郷隆盛と月照が密儀をしたと伝わる郭公亭(かっこうてい)があります。

清閑亭の名は、それが由来ではないかと考えられています。

しかし、舌を噛み切って自害した近藤正慎の遺族が営業している茶屋ということで、いつの頃からか舌切茶屋と呼ばれるようになりました。

ちなみに近藤正慎の墓は、ねねの道の南の入り口付近に建つ青龍寺にあります。

重助が始めた忠僕茶屋

月照の下男であった重助も、幕府に捕らえられ六角獄舎に入れられました。

後に釈放された重助は、生まれ故郷の綾部市高津に戻りましたが、再び清水寺に戻り、妻の実家からもらった手切れ金をもとに茶屋の営業を始めます。

その重助夫妻の茶屋が、三重塔の下にある忠僕茶屋です。

夏の忠僕茶屋

夏の忠僕茶屋

月照らの石碑から少し離れた場所には、「忠僕重助碑」と刻まれた石碑も置かれています。

忠僕重助碑

忠僕重助碑

舌切茶屋も忠僕茶屋も、今では清水寺になくてはならない茶屋になっており、多くの旅行者や観光客の方が休憩するようになっていますが、その始まりが安政の大獄と関係があることを知っている人は少ないでしょうね。

清水寺を訪れた時は、ぜひ、舌切茶屋や忠僕茶屋で休憩してください。

なお、清水寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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