西郷隆盛の幕政改革の史跡・清閑寺

京阪電車の清水五条駅から五条通(国道1号線)を東に向かって、坂道を20分ほど歩いた場所に清閑寺というお寺が建っています。

清閑寺は、境内にある要石(かなめいし)から西の方角を眺めると、左右の山の間から京都の街が扇状に開けて見えることで有名です。

閑静な境内から京都の街を眺めていると日常のストレスから解放されるように心が和んでいきます。

そんな穏やかな気持ちにさせてくれる清閑寺ですが、幕末には当時の政治に大きな影響を与える謀議が行われていました。

次期将軍を誰にすべきか

嘉永6年(1853年)に浦賀にペリーが来航して以来、江戸幕府の政治は混乱を極めていました。

開国すべきかどうかという問題はもちろんのこと、他にも病弱な13代将軍の徳川家定の後継者をどうすべきかという問題も浮上していました。

次期将軍の候補は、紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ)と水戸の一橋慶喜。

水戸の一橋慶喜を推す一派は、外交も内政も幕府の力だけで乗り切るのは困難なので、朝廷と協力して問題を解決していこうという公武合体を主張します。

この一派は、水戸藩主の徳川斉昭、老中の阿部正弘、土佐藩主の山内容堂、薩摩藩主の島津斉彬などで構成されていました。

一方、紀州の徳川慶福を推していたのが、大老の井伊直弼です。

井伊直弼は、大老に就任するとすぐに朝廷の意向を無視して、アメリカと日米修好通商条約を結びました。

井伊は、幕府の力を取り戻す事が狙いであったことから、公武合体ではなく、幕府中心で問題を乗り切ろうとしていたのです。

そのためには、朝廷を中心とすべきとする勤王を唱える水戸藩から次期将軍を出すことには反対で、紀州の徳川慶福を推す必要があったわけです。

朝廷工作の失敗と安政の大獄

一橋慶喜を推す一派の薩摩藩は、朝廷に働きかけて、慶喜を次期将軍にするための勅許を得ようとします。

この時に活躍したのが、西郷隆盛でした。

隆盛は、清水寺の成就院の僧で勤王家の月照と交わり、朝廷工作を行います。

しかし、この朝廷工作は失敗し、次期将軍は井伊直弼が擁立した徳川慶福に決定しました。

この徳川慶福こそが、薄命の14代将軍徳川家茂(いえもち)なのです。

家茂を将軍にすることに成功した井伊直弼は、一橋派の弾圧を始めました。これが世に言う安政の大獄です。

水戸藩主の徳川斉昭は謹慎、一橋慶喜も登城禁止となります。同じ一橋派の島津斉彬は、この時すでに亡くなっていましたが、弾圧は西郷隆盛や月照にも及びます。

隆盛と月照は、幕府の追手から逃れるために何度も密談をしていた清閑寺で、京都から脱出する計画をします。

西郷と月照が王政復古の謀議を行った趾

西郷と月照が王政復古の謀議を行った趾

上の写真は、幕末に西郷隆盛と月照が謀議を行った史跡を示す石碑です。

謀議は、茶室の郭公亭で行われたと言われていますが、現在の清閑寺にはその跡が残っているだけとなっています。

茶室郭公亭跡

茶室郭公亭跡

京都を脱出して薩摩に帰ってきた隆盛と月照でしたが、島津斉彬が亡くなったことで、彼らは後ろ盾を失っていました。

そのため、薩摩藩からは月照の受け入れを拒否されます。

そして、安政5年(1858年)11月15日、行き場を失った2人は舟で錦江湾にこぎ出し、投身自殺を図りました。

この時、月照は亡くなりましたが、隆盛は蘇生し、その後、奄美大島に流罪となります。

もしも、西郷隆盛が錦江湾で命を落としていたら、その後の歴史はどうなっていたのでしょうか。

きっと明治維新は何年か遅れていたことでしょう。

清閑寺の要石から京都の街を眺めていると、ふとそんなことを考えさせられます。

なお、清閑寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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