かつての宇治川に架かっていた宇治小橋

京都市伏見区の京都競馬場付近は、かつては、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる三川合流地帯でした。

この辺りが淀と呼ばれるのも、淀川との関係を連想させます。

東には巨椋池(おぐらいけ)もあったことから、見渡す限り水が溢れかえっているような景観だったのでしょうが、現在は住宅街となっているため想像するのが難しい。

でも、街中にひっそりと立つ「淀小橋旧址」と刻まれた石碑を見ると、一帯が川に囲まれていた時代があったことを認めざるを得ません。

豊臣秀吉が堤防を築く

京阪電車の淀駅を北に出るとバス停があり、ちょっとした繁華街を思わせます。

そこから北に約5分歩き、納所の交差点を右折して124号線に入ると、なだらかな坂道に民家が建ち並ぶ。

閑静な住宅街ですが、坂道になっていることから、ここら辺を宇治川が流れていたことが想像できます。

なだらかな坂道

なだらかな坂道

そして、2つの坂道が交差する場所に淀小橋旧址と刻まれた石碑と京都市が設置した駒札が立つ。

淀小橋旧址の石碑

淀小橋旧址の石碑

石碑の側面は、平成2年(1990年)に京都淀ライオンズクラブが結成15年を記念して建立したものであることを記す。

石碑の側面

石碑の側面

豊臣秀吉は、伏見城の築城にあたり、宇治川と巨椋池を切り離し堤防を築きました。

堤防は太閤堤(たいこうつつみ)と呼ばれ、周辺住民から親しまれたという。

また、豊臣秀吉と言えば、側室の淀殿のために淀城をこの地に建てたことでも知られており、その城下町と紀伊郡納所村とを結ぶために宇治川に架けられたのが淀小橋でした。

近世において、淀小橋は、伏見と大坂を結ぶ街道にあり重要な役割を果たしたとのこと。

鳥羽伏見の戦いで焼き落とされる

主要な街道に架かる橋は、戦時には勝敗に大きな影響を与えるもの。

慶応4年(1868年)1月3日に新政府軍と旧幕府軍が激突した鳥羽伏見の戦いでは、淀小橋付近の千両松が激戦地となりました。

撤退する旧幕府軍は、淀城に入って抗戦するつもりでしたが、淀藩家老の田辺権太夫(たなべごんだゆう)がこれを拒む。

そのため、旧幕府軍は、八幡市の橋本まで撤退を余儀なくされ、その途中、淀小橋と淀大橋を焼き落とし、新政府軍の追撃を阻んだのでした。

鳥羽伏見の戦い後、淀小橋はすぐに再建される。

三川が合流するこの付近は、たびたび洪水に見舞われ被害を受けていたことから、明治30年(1897年)から同44年まで淀川改良工事が行われ、その一環として同36年に宇治川付け替え工事も実施されました。

これにより川がなくなった当地に橋は不要ということで、淀小橋は撤去されることに。

そして、現在の三川合流地点は、淀の南西にずれ、桜並木が美しい背割堤には春になると大勢の花見客が訪れるようになっています。

かつて、太閤堤にも桜が植わり住民に親しまれていたそうですが、宇治川付け替え工事が行われていなければ、現在の背割堤のように淀小橋旧址付近も、整然と並んだ桜並木が国内外から訪れる旅行者の目を楽しませていたかもしれません。

現在も、近くの13号線はトラックが行き交い、近世と同じように京都と大阪の物流を支えています。

でも、かつて淀小橋が架かっていた辺りは、近隣住民以外は通ることがなく、平らに舗装された傷みの少ないアスファルトが穏やかな街であることを物語っています。

細めの道路

細めの道路

淀駅の近くには、淀城跡公園があり、石垣と堀がそのまま残っています。

淀城跡公園を散策した際は、淀小橋旧址の石碑も見に行ってはいかがでしょうか。

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