京都市伏見区の醍醐寺から北に約10分歩いたところに醍醐天皇後山科陵(だいごてんのうのちのやましなのみささぎ)があります。
醍醐寺の上醍醐に建つ薬師堂と五大堂は、延喜7年(907年)に醍醐天皇が建立していることから、その近くに御陵があるのはうなづけます。
臣籍の身分から即位した天皇
醍醐天皇後山科陵には、地下鉄の小野駅から南西に約10分歩くと到着します。
広々とした緑地なので、遠目からでも、あそこが天皇陵だなとわかります。
入口には、宮内庁の案内。
横長の板にここが醍醐天皇後山科陵であることが記され、みだりに域内に立ち入らないこと、魚鳥などを取らぬこと、竹木等を切らぬことと他の天皇陵でも見る注意書が墨書されている。

宮内庁の案内
周囲は生垣に囲まれ、入口からは北に向かって約100メートルの参道が延びる。
参道の脇にも松が植わり、禅寺のような景観。

参道
参道を進んだ先には、石造の玉垣があり、奥には鳥居、さらに奥に木々が生い茂っています。

醍醐天皇後山科陵
よく見る天皇陵と同じ配置ですが、醍醐天皇後山科は、規模が大きめ。
地図だと、鳥居を中心に円形になっており、ちょっとした前方後円墳に見えます。
醍醐天皇の父は、光孝天皇の第7皇子で、臣籍降下した源定省(みなもとのさだみ)。
醍醐天皇も、源維城(みなもとのこれざね)と称していました。
光孝天皇は、仁和2年(886年)に右京区に仁和寺の創建を開始しましたが、翌年に志半ばで崩御し、その遺志を継いだ宇多天皇が完成させています。
この宇多天皇こそが、源定省です。
源定省は、皇族に復帰して親王宣下を受けた後、皇太子となり、光孝天皇の次の天皇として即位することになります。
これにより、宇多天皇の第一皇子である維城も皇族に復帰し、親王宣下を受けて敦仁親王となりました。
そして、寛平9年(897年)に敦仁親王は、宇多天皇から譲位されたことで、醍醐天皇として即位したのでした。
臣籍の身分として生まれ即位したのは、後にも先にも醍醐天皇だけです。
菅原道真が左遷された時の天皇
醍醐天皇が歴史の中で登場するのは、藤原時平の讒言(ざんげん)により菅原道真を大宰府に左遷させた事件。
道真は、醍醐天皇を廃位しようとしたというのが左遷の理由です。
大宰府で亡くなった道真は、その後、怨霊となり、延長8年(930年)に清涼殿に雷を落とす。
醍醐天皇は、落雷による清涼殿の火災では難を逃れましたが、その後、体調を崩し、朱雀天皇に譲位した後、崩御しています。
当時の御所から遠く離れた醍醐の地に埋葬された醍醐天皇。
まるで、道真の怨霊から逃れるためにこの地を選んだかのようです。