慶応4年(1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が、旧幕府軍を火力で圧倒します。
1月4日には、新政府軍が錦の御旗を掲げ、旧幕府軍を構成する会津藩や新撰組は、伏見の南西に位置する淀まで撤退。
そして、翌5日には、淀の千両松で新政府軍と旧幕府軍が再び戦闘を繰り広げ、当地は鳥羽伏見の戦いにおける激戦地となりました。
現在、千両松には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた慰霊碑が立っています。
千両松の跡地
京阪電車の淀駅を降り、右手に京都競馬場を見ながら、線路沿いにある歩行者専用道路を北東に向かって約10分歩くと国道124号線に入ります。
さらに国道を北東に数分歩くと、左側に千両松の跡地が見えてきます。
駅の近くは、お店や住宅が多く建ち並んでいたのですが、千両松に近づくにつれ民家が少なくなり、人影もまばらに。
千両松の跡地を示す一帯の南西角には、黒くくすんだ平べったい石碑が敬礼するかのように直立。

千両松の跡地
北東角にも木製の四角柱があり、四面には色抜けが激しい「史跡戊辰役東軍西軍激戦之地」の文字。

史蹟戊辰役東軍西軍激戦之地
電車が通過するときには大きな音が聞こえるものの、割と静まり返った寂しい場所。
住宅地の中心から離れているとはいえ、ここに慰霊碑がなければ、鳥羽伏見の戦いの激戦地だったとは想像できない景観。
旧幕府軍は淀城に入城する予定だったが
伏見方面から退いてきた旧幕府軍は、淀城に立てこもり新政府軍を迎え撃つつもりでいました。
淀駅から南西に約2分歩くと淀城跡公園があり、現在も石垣と堀が残っています。

淀城跡の石垣と堀
千両松からでも、歩いて15分から20分の近い距離。
淀城は稲葉家の居城で、当時の淀藩主は稲葉正邦(いなばまさくに)でした。
彼は、幕府の老中を務めていたことから、旧幕府軍は誰もが味方だと信じていました。
ところが、正邦は鳥羽伏見の戦いのとき江戸におり、これが旧幕府軍にとって不運なことになります。
この時、淀城の留守を預かっていたのは家老の田辺権太夫(たなべごんだゆう)でした。
新政府軍は、事前に淀藩に働きかけ、旧幕府軍を入城させないよう要請。
また、尾張藩からも説得があり、田辺権太夫は藩主不在の中、淀藩の行く末を左右する重大な局面に立たされます。
彼が出した結論は新政府軍に味方すること。
旧幕府軍がやってきても城門を固く閉ざし、入城を拒否。
譜代の淀藩が、まさか断るとは考えていなかった旧幕府軍は、千両松に陣取り新政府軍を迎え撃つしかありませんでした。
旧幕府軍は千両松で惨敗
千両松は、宇治川に築かれた堤防の淀堤(よどつつみ)にあり、豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、その名が付いたと伝えられています。
かつては、この辺りを宇治川が流れていたのですが、明治36年(1903年)の宇治川付け替え工事により、その流れは南に移動しています。
会津藩や新撰組は、堤防に身を伏せ、新政府軍が進軍してきたところを襲撃する作戦。
周辺は銃砲を使いにくい湿地帯でもあったことから、最初は会津藩や新撰組の白兵突撃が功を奏したものの、体勢を立て直した新政府軍の砲撃により旧幕府軍は総崩れ。
多くの戦死者を出した会津藩と新撰組は、近くの淀小橋を焼き落とし、八幡市の橋本まで撤退を余儀なくされたのでした。
千両松の戊辰役東軍戦死者慰霊碑には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない」から始まる碑文が刻まれています。

戊辰役東軍戦死者慰霊碑
この慰霊碑が建立されたのは、昭和45年(1970年)です。
また、敷地の中央には縦に長い「戊辰役東軍戦死者納骨地」と刻まれた慰霊碑も立っています。

戊辰役東軍戦死者埋骨地
その前には花が供えられており、今でも参拝者が絶えていないことを物語る。
フィールド・ミュージアム京都の戊辰役東軍戦死者納骨地のページによると、周辺に招魂碑と埋骨地碑を合わせて15基の鳥羽伏見の戦いの石碑が存在しているそうです。
いずれも明治40年に東軍戦死者四十年祭典が京都十七日会により挙行された際に建立されたとのこと。
新撰組の亡霊が慰霊碑の撤去を防ぐ
昭和45年に建立された戊辰役東軍戦死者慰霊碑は、鳥羽伏見の戦いから随分と時間が経っていますが、これは新撰組の亡霊が出るとの噂と関係があるようです。
この頃、京都競馬場の拡張工事があり、千両松にあった戊辰役東軍戦死者納骨地の慰霊碑を撤去しています。
以前に紹介した書籍『京都「地理・地名・地図」の謎』によると、慰霊碑を撤去した直後から工事に事故が相次ぎ、新撰組の旗を持った隊士の幽霊が「元の場所に返せ!」と叫びながら、毎晩あらわれるようになったと噂されたという。
これに恐れをなした工事関係者は、慰霊碑を管理している妙教寺に依頼し、慰霊碑の供養を行って、もとの場所に復元。
以来、幽霊は出なくなったそうです。
戊辰役東軍戦死者慰霊碑の裏には、「非命に斃れた会津 桑名の藩士及び 新選組 並びに京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ」と刻まれており、建立当時の日本中央競馬主協会連合会長や京都馬主協会長、京都競馬場長らの名も見られます。
今も、戊辰役東軍戦死者納骨地の慰霊碑にお参りする人がいるのは、新撰組の幽霊が出ないようにと願う意味もあるのかもしれません。