京都市東山区の知恩院と左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、ともに浄土宗の本山であり、広々とした境内に豪壮な建物がいくつも建っています。
どちらも浄土宗の開祖の法然上人ゆかりの地ですが、現在の寺観になったのは江戸時代のこと。
徳川家の援助を受けて、境内が整備されたのですが、そこには、幕府の戦略的な意図があったとされています。
知恩院は徳川三代で造営した
京都での江戸幕府の拠点は、中京区の二条城ですが、これに加えて知恩院と金戒光明寺も城構えに改め、戦略上の拠点にしました。
知恩院は、江戸時代初期に徳川家康が徳川家の香華院(こうげいん/菩提寺のこと)と定め、北隣の青蓮院の寺地を割いて大伽藍を造営しています。
入り口に建つ威風堂々とした三門は、2代将軍の秀忠が建立したもの。

知恩院の三門
その後、寛永10年(1633年)に火災に遭って三門と経蔵以外の建物が焼失しましたが、3代将軍の家光が再興し、家康が造営した時の寺観を取り戻しています。
現在の御影堂(みえいどう)は、家光によって再建されたものです。

知恩院の御影堂
このように知恩院は、家康、秀忠、家光の3代に渡って現在の姿に整えられたのでした。
石段上にどっしり建つ三門が城門を思わせ、その後ろに設けられた男坂は、そう簡単に軍勢が上ってこれそうにないほど急な石段になっています。
ここに知恩院が城構えであることを想起させますが、最も城郭のように見えるのは、三門から北にある黒門をくぐった先の石垣です。

知恩院の石垣
黒門から北門に向かう坂道の参道は、左折、右折、右折と何度も曲がらなければならず、大軍が一気に攻め込みづらくなっています。
しかも、参道沿いに石垣があるので、よじ登るのも困難。
北門も狭く、大勢でくぐれません。
境内に入ると、御影堂の前が広々としており、守る徳川の軍勢を配置するのに適しているように見えます。
御影堂からさらに高い場所に建つ勢至堂は、そこまで行くのに智慧乃道と呼ばれる細長い石段を上らなければならなず、ここも攻める側にすれば難所と言えそうです。
金戒光明寺は兵の宿所に適している
知恩院は華頂山の中腹に建っていますが、金戒光明寺も黒谷と呼ばれる丘に境内があります。
丘の最も高い場所にある三重塔は、秀忠の菩提を弔うために建てられたもの。

金戒光明寺の三重塔
金戒光明寺も山門の前に急な石段があり、そこから西の高麗門まで続く参道の北側には石垣が組まれており、城郭さながらの威圧感があります。

金戒光明寺の石垣
金戒光明寺は、幕末に京都守護職を務めた会津藩の宿所となったことで有名。
会津藩が当寺を宿所としたのは、徳川ゆかりの寺院であることや城構えで攻め込まれにくいという理由もありますが、藩士1千人を駐屯させることができる宿坊が52もあったことによります。
守りやすそうに見えるのは知恩院ですが、藩士に生活の場を提供するためには金戒光明寺を宿所とする方が都合が良かったのでしょう。
粟田口がある三条通を挟んで南北に建つ
知恩院と金戒光明寺の位置関係も、なかなか興味深い。
三条通を挟んで、知恩院は南、金戒光明寺は北に位置しています。
京の七口の一つである粟田口は三条通にあり、それを両寺院が挟むようなかたち。
敵が京都を占拠し、江戸に向かって進軍する場合、三条通を通らなければなりません。
しかし、三条通の南北には、徳川の拠点である寺院があるため、うかつに進むと挟み撃ちに遭う。
江戸幕府初期に知恩院と金戒光明寺を城構えに改めたのには、このような理由も考えられそうです。
また、三条大橋を西に渡れば二条城に行くことができるので、籠城する味方を知恩院や金戒光明寺から援軍を派遣しやすいといった理由もあったかもしれません。
なぜ、徳川が、知恩院と金戒光明寺を城構えに改めたのか。
考えていると、いろいろ思い浮かび睡眠不足になりそうです。