堀川通や御池通は戦時中の強制疎開で広くなった

京都市は空から見下ろすと碁盤の目のようになっているのがわかります。

これは、南北の道路と東西の道路が、何本も交わっていることが理由。

ただ、道路の幅は、どれも同じではなく、広い道路もあれば狭い道路もあり必ずしも均整がとれているとは言えません。

また、路地や辻子などもあちこちにあるので、完全な碁盤の目でもありません。

京都市内で、特に道幅が広い道路は、堀川通、御池通、五条通ですが、かつては、今ほどの広さはありませんでした。

これらの道路が広くなったのは、戦時中の強制疎開が理由です。

無差別爆撃に備えて強制疎開

京都市内の最初の空襲は、昭和20年(1945年)1月16日でした。

この日未明、米軍の爆撃機B29が東山区の馬町を空襲。

死者は41人、負傷者は48人、被害家屋は316軒と大きな被害を受けました。

前年から本土への空襲に備えるため、内務省が建物疎開を進めていましたが、京都市でも馬町空襲の2ヶ月後の3月に第三次建物疎開を行っています。

このとき、紫明通、堀川通、御池通、五条通、八条通、智恵光院通など、大規模に強制立ち退きが行われました。

これにより、約1万世帯が1週間から10日以内に立ち退きを迫られことに。

続・京都に強くなる75章』という書籍には、強制疎開の補償額は150円、移転費は350円だったそう。

当時の警察官の初任給が60円だったとのことですから、補償費と移転費を合わせても約8ヶ月分の給料くらいしかもらえなかった計算です。

京都市内の建物疎開は8月まで続き、空き地となった沿線沿いは菜園として利用されることになりました。

戦後、強制疎開の対象となった道路は、昭和28年まで整備が行われ、この時に現在の広々とした道路に生まれ変わっています。

市内の中央を南北に通る堀川通は、北は鞍馬口通から南は八条通までの間で強制疎開が行われ、幅員50メートルの道路に生まれ変わりました。

現在、中央分離帯はイチョウ並木になっており、晩秋には一直線に黄金色に染まった景色が見られます。

秋の堀川通

秋の堀川通

鞍馬口から東の賀茂川にかけては、幅員20メートルの紫明通になっていますが、中央分離帯はかつての琵琶湖疏水支流で、道路部分が建物疎開により拡張されたところと考えられています。

二条城が建つ辺り、堀川通から鴨川へ向かって延びる御池通も、昭和22年に幅員50メートルの都市計画道路として活用することが定まりました。

河原町通から木屋町通までの区間は、中央分離帯にプールのように水が張られ、夏場は涼し気。

御池通の中央分離帯

御池通の中央分離帯

中央分離帯があっても道路は広々していますが、中央分離帯がない区間はさらに広い。

7月の祇園祭では、御池通を山鉾が巡行しますが、巨大な鉾もこの道路から見ると小さく感じるほど。

御池通を進む祇園祭の鉾

御池通を進む祇園祭の鉾

五条通は、御池通より建物疎開の区間が広く、東は東大路通、西はJRの丹波口駅付近までがその対象となりました。

五条通も、幅員は50メートルあり、五条大橋近くの中央分離帯には、弁慶と牛若丸が闘っている像が置かれています。

五条通

五条通

京都駅の南側を東西に走る八条通は、東は鴨川、西は堀川通までが建物疎開の対象となり、現在は京都駅近くの幅員が約20メートルあります。

また、堀川通の西にある智恵光院通は、北は廬山寺通、南は丸太町通までが強制疎開となり、現在の幅員は10メートルもありません。

建物疎開の目的は京都御所を守るため

建物疎開は、空襲による火災を最小限にとどめるために行われたわけですが、先ほど紹介した『続・京都に強くなる75章』では、京都市の場合、京都御所が守らなければならない重要施設とされていたとのこと。

京都御所の紫宸殿

京都御所の紫宸殿

京都御所を中心にして地図を見るとわかりやすく、北の紫明通、南の御池通、西の堀川通、東の鴨川に囲まれています。

確かに京都御所に類焼するのを避けるためにその周囲の建物を取り払ったことが伺えます。

また、五条通と八条通の建物疎開は京都駅を火災から守る目的だったことも地図を確認すればわかります。

堀川通が広いのは、交通の便を良くするためと思っていましたが、実は、京都御所を守るために行った強制疎開の副産物だったんですね。

碁盤の目であるはずの京都の街並みが崩れているところには、何か意味が隠されているものです。

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