「近代」一覧

堀川通や御池通は戦時中の強制疎開で広くなった

京都市は空から見下ろすと碁盤の目のようになっているのがわかります。 これは、南北の道路と東西の道路が、何本も交わっていることが理由。 ただ、道路の幅は、どれも同じではなく、広い道路もあれば狭い道路もあり必ずしも均整がとれているとは言えません。 また、路地や辻子などもあちこちにあるので、完全な碁盤の目でもありません。 京都市内で、特に道幅が広い道路は、堀川通、御池通、五条通ですが、かつては、今ほどの広さはありませんでした。 これらの道路が広くなったのは、戦時中の強制疎開が理由です。

私立絵画専門学校裏と都ホテルに造られた隧道式防空壕

京都市は、戦時中に空襲を受けることが少なかった都市です。 それでも、昭和20年(1945年)に入ると1月に東山の馬町が空襲を受け、その後も、右京区の太秦(うずまさ)や上京区の西陣などが被害に遭っています。 日本各地で空襲が激しくなったのを受け、昭和19年に内務省により重要施設の隧道(ずいどう)式防空壕への移転が進められ、京都でも同20年1月から府庁を防空壕に移すための工事が始まりました。 府庁の移転場所に決まったのは、東山七条の私立絵画専門学校裏の丘陵地と蹴上の都ホテルの地下でした。

伊藤若冲の『動植綵絵』の売却で境内を取り戻した相国寺

京都市上京区の京都御苑の北に相国寺(しょうこくじ)という臨済宗のお寺が建っています。 マツやカエデなど、たくさんの木々が植わる境内は約4万坪を誇る。 創建したのは室町幕府3代将軍の足利義満。 境内を見渡しながら、さすが将軍ともなると、このような広大な敷地にお寺を造営できるんだなと考えてしまいますが、創建当時は約144万坪もあったというのですから、いったいどれだけの財力を持っていたのか想像することもできません。

梅雨の終わりに訪れた新島旧邸の通常公開で付属屋と母屋の外観を見た・2026年

7月上旬に行願寺にハスを見に行った後、寺町通を北に約5分歩き、京都市上京区の新島旧邸を訪れました。 新島旧邸は同志社大学の創立者である新島襄(にいじまじょう)が明治時代に住んでいた邸宅。 何気なく前を通ると一般公開が行われており、しかも入場無料とのことだったので立ち寄ることにしました。

蹴上船溜と南禅寺船溜の高低差を乗り越えるために活躍したインクライン

千年以上に渡り都が置かれた京都は、街の発展にともない経済的に重要な都市となっていきました。 経済発展した都市では、人や物の行き来が盛んになるもの。 しかし、京都は海に面しておらず、しかも、盆地であることから流通に難を抱え、他の都市との競争で遅れを取ってしまうとの危機感が持たれていました。 その解消のために利用が計画されたのが、隣県滋賀の琵琶湖。 江戸時代には、琵琶湖から京都に運河を造り、舟運で物資を輸送する案が何度も浮上しましたが、当時の土木技術では画餅に過ぎず実行に移されることはありませんでした。

祇園甲部歌舞練場の敷地に置かれた八阪歌舞場碑

四条大橋と八坂神社のちょうど真ん中あたりを南北に花見小路通が横切っています。 四条通から花見小路通を南に曲がれば、祇園白川や清水と同じような古都の町並みが現れ、近年は外国人旅行者に大人気。 そのまま南下していくと建仁寺の北門にぶつかりますが、少し手前の東側には祇園甲部歌舞練場(ぎおんこうぶかぶれんじょう)があります。 舞妓さんや芸妓さんを見られるところですね。 その敷地内には、「八阪歌舞場碑」と刻まれた石碑が置かれています。

カペラ京都の裏に置かれた新道小学校の碑

京都市東山区の建仁寺の西側にカペラ京都というホテルが、2026年3月23日に開業します。 同ホテルが建つ地は、かつて新道小学校(しんみちしょうがっこう)があった場所。 卒業生にとって母校がなくなるのは寂しいでしょうが、ずっと廃墟のように放置されているより多くの旅行者に利用される方が有意義と感じる卒業生もいらっしゃることでしょう。

第1回京都博覧会の会場となった建仁寺、知恩院、西本願寺

幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。