近代一覧

蹴上船溜と南禅寺船溜の高低差を乗り越えるために活躍したインクライン

千年以上に渡り都が置かれた京都は、街の発展にともない経済的に重要な都市となっていきました。 経済発展した都市では、人や物の行き来が盛んになるもの。 しかし、京都は海に面しておらず、しかも、盆地であることから流通に難を抱え、他の都市との競争で遅れを取ってしまうとの危機感が持たれていました。 その解消のために利用が計画されたのが、隣県滋賀の琵琶湖。 江戸時代には、琵琶湖から京都に運河を造り、舟運で物資を輸送する案が何度も浮上しましたが、当時の土木技術では画餅に過ぎず実行に移されることはありませんでした。

祇園甲部歌舞練場の敷地に置かれた八阪歌舞場碑

四条大橋と八坂神社のちょうど真ん中あたりを南北に花見小路通が横切っています。 四条通から花見小路通を南に曲がれば、祇園白川や清水と同じような古都の町並みが現れ、近年は外国人旅行者に大人気。 そのまま南下していくと建仁寺の北門にぶつかりますが、少し手前の東側には祇園甲部歌舞練場(ぎおんこうぶかぶれんじょう)があります。 舞妓さんや芸妓さんを見られるところですね。 その敷地内には、「八阪歌舞場碑」と刻まれた石碑が置かれています。

カペラ京都の裏に置かれた新道小学校の碑

京都市東山区の建仁寺の西側にカペラ京都というホテルが、2026年3月23日に開業します。 同ホテルが建つ地は、かつて新道小学校(しんみちしょうがっこう)があった場所。 卒業生にとって母校がなくなるのは寂しいでしょうが、ずっと廃墟のように放置されているより多くの旅行者に利用される方が有意義と感じる卒業生もいらっしゃることでしょう。

第1回京都博覧会の会場となった建仁寺、知恩院、西本願寺

幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。

琵琶湖疏水の力で日本で最初に路面電車を走らせた京都

日本で最初に路面電車が走ったのは東京だと思われがちですが、それはまちがいで正しくは京都です。 日本初の路面電車は、京都電気鉄道が明治28年(1895年)に七条停車場から竹田街道を南下する伏見線を走らせました。 東京よりも早く京都が路面電車を走らせることに成功したのは、当時の京都の事情を知るとなるほどと納得します。

娯楽を目的に誕生した新京極通

京都市中京区の地下鉄京都市役所前駅を出て寺町通を南に約5分歩くと、その東側に三条通から四条通にかけてアーケード街の新京極通があります。 通り沿いには、お土産物屋さん、ドラッグストア、服屋さん、飲食店、ゲームセンター、映画館、パチンコ店など、買い物や娯楽を楽しむための施設が軒を連ねていますね。 それもそのはずで、新京極通は誕生した時から娯楽を目的としており、今もその目的通りに栄えています。

河原町通の拡幅で存続が決まった一之船入

鴨川に沿って北から南に流れる高瀬川は角倉了以によって開削され、江戸時代の京都の物流を支える重要な運河として機能しました。 しかし、京都の近代化に伴い舟運は廃れていき、高瀬川の存在意義も次第に失われていきます。 大正時代には、舟運が終了し高瀬川が利用されなくなり、もはや不必要な運河となりました。 でも、高瀬川は現在まで存続し、その北端には江戸時代の景観を今に伝える一之船入(いちのふないり)も残っています。

京都の雛人形は男雛と女雛が左右反対

3月3日の桃の節句で飾られる雛人形。 飾る時にどっちだったかなと考えてしまうのが、男雛と女雛の配置です。 男雛が向かって右だったか、それとも左だったか。 正しい方がわからずネットで調べて、男雛が向かって左だとわかるのは、この時期の風物詩ですよね。 でも、京都では、男雛を向かって右に置いていることもよくあります。

明治になって再建された豊国神社

京都市東山区に建つ豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉を祀っています。 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺体は、彼の遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されました。 そのふもとの豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら)には、80余りの廟社が造営され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜っています。 これが豊国神社の創建ですが、その後、荒廃し、明治になって再建されています。