近代一覧

真如堂にある京都映画誕生の碑

京都市左京区の神楽岡の南東に真如堂(しんにょどう)というお寺が建っています。 正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、春の桜や秋の紅葉が観光客に人気があります。 境内は、日本のお寺らしい建物や石碑がいくつも建っていますが、中にはお寺らしくないものもあります。 例えば、「京都映画誕生の碑」ですね。

豊国神社の近くにある明治天皇御小休所下京第二十七区小学校阯の石碑

京都市東山区の正面通に耳塚があります。 耳塚は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本の兵が朝鮮や明国の兵たちの耳や鼻を削いで日本に送った際に埋葬した塚です。 その耳塚の東隣には公園があります。 公園の片隅には、2つの石碑が置かれており、どちらも、ここが明治天皇御小休所(めいじてんのうごこやすみどころ)と下京第二十七区小学校があった場所だと伝えています。

熊野若王子神社の近くにある東方斎・荒尾精先生の碑

明治維新の原動力となったのは、イギリスと清国との間に起こったアヘン戦争でした。 アヘン戦争ではイギリスが勝利し、清国はイギリスの言いなりとなります。 このままでは、日本もイギリスなどの西洋諸国に侵略されてしまうという危機感が国内で沸騰し、外国人を打ち払うべきだという主張と開国して近代化すべきだという主張がぶつかり合い、やがて明治維新を迎えました。

今も昔も外国人旅行者で賑わう円山公園

京都市東山区にある円山公園は、京都市民の憩いの場であるとともに旅行者や観光客の方が休憩する場所として、いつも賑わっています。 円山公園が造られたのは、明治19年(1886年)ですから、国内でもかなり古くからある公園です。 春になるとたくさんの桜が咲く円山公園は、近年、特に多くの方がお花見に訪れるようになっていますね。 ところで、円山公園が、今のように賑わいだしたのはいつごろからなのでしょうか。 つい最近のように思われるかもしれませんが、実は古くからこの界隈はリゾート地として栄えていたのです。

京都新英学校及京都女紅場の跡地に建つ旧京都中央電話局上分局

京都は、お寺や神社が多い街です。 そのため、旅行や観光で京都にお越しになる多くの方は、和の風情を求めていると思います。 ところが、京都に来てみると、お寺や神社などの和風建築物に混ざって、明治から昭和初期に建てられた近代建築物が意外と多いことに気付くはずです。 特に京都御苑の周辺には、近代建築物がたくさん建っていますね。 鴨川に架かる丸太町橋の西側に建つ旧京都中央電話局上分局も、そのひとつです。

真如堂の藹山自叙碑

幕末から明治時代にかけて活躍した画家に谷口藹山(たにぐちあいざん)がいます。 藹山の生まれは越中国新川郡鉾ノ木村で、名を貞二といいました。 幼少の頃から絵が好きで、18歳で江戸に出て谷文晁のもとに入門し文齋と号しましたが、すぐに梁川星巌(やながわせいがん)のすすめで高久藹崖(たかくあいがん)の門下となって藹山と号しました。

真如堂の小林君之碑

京都市左京区の真如堂には、いくつか石碑があります。 それらの碑文を見ても、何を書いているのか全くわかりません。 でも、石碑の近くには、説明書が設置されているので、それを読むと、石碑の意味が理解できます。 本堂の南側にある小林君之碑(おばやしくんのひ)も、最初は何の石碑かまったくわからなかったのですが、お寺が用意している説明書のおかげでその内容がわかりました。

山本覚馬の邸宅は吉田稔麿が討死した場所近くにあった

京都市中京区の河原町御池の交差点を歩いていたら、南西角のZest御池の入り口近くに石碑が立っているのに気づきました。 以前は、こんなところに石碑はなかったのですが、知らない間に建立されたんですね。 河原町御池の南西角に立つ石碑には、「北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡」と刻まれています。

油掛通にある電気鉄道事業発祥の地の石碑

京都市伏見区に油掛通という名の道路があります。 その名は、通りに西岸寺(さいがんじ)というお寺があり、そこに油掛地蔵が祀られていることが由来とされています。 さて、油掛通には、「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」と刻まれた石碑があります。 そう、日本での電鉄の営業は、京都市から始まったのです。