三条大橋から三条通を西に約5分歩くと、アーケード街に入ります。
そのまま屋根の下をさらに西に3分ほど歩くと、南に向かって、お土産物屋さんや飲食店、若者に人気のお店が軒を連ねる新京極通が延びています。
新京極通を南下し、六角通を過ぎた左手に誓願寺というお寺が建っているのですが、その前で新京極通は南西に45度くらいに折れ曲がり、再び南に向かうようになっています。
碁盤の目で有名な京都の通りですが、ここは例外。
いったいなぜ、まっすぐ新京極通を造らなかったのでしょうか。
誓願寺の移転を支援した松丸殿
誓願寺の最寄り駅は、地下鉄の京都市役所前駅です。
駅から寺町通を約7分南に歩き、六角通で東に曲がると広場の向こうに誓願寺の山門が建っています。

誓願寺の門前
以下の地図を見ていただければ、山門と広場の間で、新京極通が折れているのがわかります。
広場の屋根を見ても、ここで折れているのが確認できますね。

誓願寺前の新京極通
誓願寺は、天智天皇の勅願で奈良に創建されたのが始まりというのですから、京都の寺院の中でも、とても長い歴史を持っています。
鎌倉時代初期に京都市上京区の一条小川に移転したのですが、天正年間(1573-1592年)に豊臣秀吉が寺院を寺町に密集させるべく京都を改造した際に当地に移ってきました。
その際、誓願寺を支援したのが、京極高次の妹・京極竜子です。
寺町移転の頃には、豊臣秀吉の側室となっており、松丸殿(まつのまるどの)と呼ばれていました。
時は過ぎ明治となり、京都府知事の槇村正直が三条から四条の間に歓楽街の新京極通を造ることにし、誓願寺の境内の大部分が上地されてしまいました。
権力者に逆らわないのが京都市民の気風。
誓願寺も上地に逆らわず境内を割譲したわけですが、譲れないものがあったという。
高野澄さんの著書『京都の謎<東京遷都その後>』には以下のように記されています。
松丸殿の墓と、秀吉の長男で夭折した国松の墓があった。たとえ京都府知事の命令でも、この二個の墓だけは移転させられないと誓願寺が抵抗した結果、新京極通がここで西へ曲がることになったのではないか。
国松は豊臣秀頼の子なので秀吉の長男ではありませんが、秀吉には幼くして亡くなった男子がいたので、その子のことかもしれません。
ただ、松丸殿は、大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ後、処刑された国松の遺体を引き取り誓願寺に埋葬しているので、ここは秀頼の子の国松が正しいと思われます。
寺町の四条通側にあった金蓮寺の境内も上地が決まっていたので、南北に一直線の新京極通を通すことは容易かったはず。
それなのに誓願寺の前で折れているのは、道路工事に何らかの意思が働いたと見るのが自然でしょう。
なお、国松と松丸殿の墓は、現在、東山区の豊国廟(ほうこくびょう)に置かれています。
ちなみに前田利家の三女で秀吉の側室になったお摩阿(まあ)のお墓が、誓願寺の墓地にあります。
なぜ、新京極通が誓願寺の前で折れているのか気にする人は少ないと思いますが、上のような説があることを知ると興味がわいてきませんか。
何気ない違和感。
そこに京都の秘密が隠されていることがあるのです。
なお、誓願寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。