後花園天皇火葬塚と後花園天皇後山國陵

堀川今出川の交差点から堀川通を北に約10分歩いた右手に後花園天皇火葬塚があります。

市バス停「天神公園前」からだと北に徒歩約3分の場所。

天皇陵ではなく火葬塚となっているのが興味を引きます。

後花園天皇火葬塚

下の写真に写っているのが、後花園天皇火葬塚です。

後花園天皇火葬塚

後花園天皇火葬塚

京都市内でよく見かける天皇陵とよく似ており、石造りの玉垣に囲まれ、一般人は中に入れないよう柵が設けられています。

ただ、天皇陵と異なり、石造の神明型の鳥居が見られません。

火葬塚とは、その名からもわかるように遺体を火葬した場所のこと。

文明2年(1470年)、後花園天皇が崩御したとき、当地にあった悲田院で火葬されています。

この頃は、応仁の乱で京都市内は焼け野原となり、悲田院も衰退します。

その後、天正14年(1586年)に虚應和尚(きいんおしょう)が、由緒ある遺跡を惜しんで、大應寺を建立し、現在も後花園天皇火葬塚の近くに残っています。

大應寺

大應寺

本堂には、後花園天皇の念持仏と伝わる観世音菩薩像が祀られています。

一方、悲田院は、正保2年(1645年)に高槻城主の永井直清が東山区の泉涌寺(せんにゅうじ)山内に移し、現在も存続しています。

後花園天皇後山國陵

火葬された後花園天皇の遺骨は、遺命により右京区京北町に建つ常照皇寺に埋葬されました。

境内の裏側の一段高い場所、木製の門と玉垣に囲まれた一角に後花園天皇後山國陵(ごはなぞのてんのうのちのやまくにのみささぎ)があります。

後花園天皇後山國陵

後花園天皇後山國陵

当寺は、北朝の天皇だった光厳天皇(こうごんてんのう)が隠棲した地であり、後花園天皇後山國陵と同じ場所に光厳天皇山國陵もあります。

また、ここは後土御門天皇の分骨所でもあります。

後花園天皇は、後土御門天皇に譲位して上皇となりましたが、その直後に応仁の乱が勃発しています。

法皇となった後花園天皇は、東軍の細川勝元に停戦を要請するなど乱の収束に尽力しましたが、その甲斐なく戦火は拡大し、応仁の乱は長期化します。

崩御した文明2年は、まだ応仁の乱が治まる気配を見せていません。

常照皇寺に埋葬するよう遺命を残したのは、南北朝時代に権力者に利用された光厳天皇と自分を重ね合わせるところがあったのかもしれません。

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