北朝の光厳法皇が隠棲した常照皇寺

京都市右京区の旧京北町(けいほくちょう)に常照皇寺というお寺があります。

常照皇寺は、貞治元年(1362年)に北朝の初代天皇であった光厳法皇(こうごんほうおう)が創建しました。

常照皇寺は、訪れたことがある方ならご存知と思いますが、京都市中心部からかなり遠い場所に建っています。

なぜ、光厳法皇は、都から遠い場所に常照皇寺を創建したのでしょうか。

南北朝の争乱

鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が行われました。

しかし、後醍醐天皇と足利尊氏が対立したことで、新政はうまくいきませんでした。

遂に後醍醐天皇は、足利尊氏に京都から追い出され、吉野に逃げて、そこで南朝を開きました。

これに対抗するために足利尊氏も京都に北朝を開きます。この時、尊氏によって擁立されたのが、光厳天皇だったのです。

光厳天皇は、後伏見天皇の皇子で、以前にも皇位についていたのですが、鎌倉幕府末期の動乱を経て、建武の新政の時に廃位させられました。

なお、南北朝の争乱は、足利尊氏が北朝を開いたことが原因ですが、それ以前に皇室では、皇位継承に関して、2つの勢力が争っていたこともその原因だったのではないかということをこのブログで紹介しています。

詳細は以下の過去記事をご覧になってください。

北朝の初代天皇となった光厳天皇は、その後、光明天皇に皇位を譲り、上皇となりました。

その後も南北朝の争乱は続いていくのですが、同時に足利家でも尊氏とその弟の直義が争い始めます。

尊氏は、鎌倉にいる直義を討伐するために京都を留守にする必要がありました。

しかし、尊氏が京都を留守にすると、南朝が京都に攻め込んで来る心配があります。

そこで、尊氏は、なんと南朝と和睦することにしたのです。

これに困ったのは、北朝の天皇や上皇たちでした。

室町幕府の後ろ盾を失った北朝は、尊氏が京都を留守にしている間に北朝に攻められ、あっけなく上皇たちは捕えられました。

そして、光厳上皇は、北朝の監視下に置かれ、5年後に京都に戻ることができました。

その後、上皇は出家し法皇となり、道覚を伴に連れて旅に出ることにしました。

右京区の荒れ寺を改創

旅に出た法皇たちは、京都市右京区を訪れました。

そこで、法皇たちは、村の童に誰も住んでいない成就寺(じょうじゅじ)という荒れ寺に案内されます。

この成就寺を改創してできたのが、現在の常照皇寺です。

常照皇寺の方丈の中は、とても簡素で、床は古い板がはめ込まれているだけといった感じです。

方丈

方丈

参拝時にいただいた拝観案内には、現代語訳された光厳法皇の誡(いましめ)が記載されています。その内容を以下に引用します。

お互いに送り送られる時は、世の常の見栄や義理などにとらわれず、心のこもる簡明な礼を尽くせば十分です。お寺も決して大きくしないように。流行(はや)り寺は廃(すた)り寺となります。皆さんがそれぞれのつとめに励んで下さること。それが私の「お願い」です。

方丈内が簡素なのは、この誡によるものなのでしょうか。

方丈の後ろには、池泉式の庭園があります。

庭園

庭園

拝観案内によると、池にはモリアオガエルが、すんでいるとのこと。

光厳法皇は、この池で、カエルの卵がかえり、たくさんのカエルたちが大合唱するのだろうと思っていましたが、朝に池を見ると、わずか十数匹しかカエルはいませんでした。

池の周囲には、ゲンゴロウやヘビなどが腹いっぱいの様子で群れており、法皇は、涙を流し、波乱の多かった自分の人生を思いつつ、自然の摂理に気付いたそうです。

光厳法皇は、常照皇寺に入って2年後の貞治3年に亡くなりました。

方丈の隣に建つ開山堂には、光厳法皇の像が祀られています。

開山堂

開山堂

また、開山堂の近くには、光厳天皇山国陵(こうごんてんのうやまぐにのみささぎ)もあります。

光厳天皇山国陵

光厳天皇山国陵

この山国陵は、山の上にあります。

このような京都市右京区の山の中に隠棲したのは、光厳法皇の心の中に、もう政治に利用されたくないといった思いがあったのでしょうか。

現在、山国陵には、誰も近づけないようになっています。

関連記事