南北朝の争乱の原因は後嵯峨天皇だったのでは?

鎌倉時代が終わり(1333年)、その後に訪れたのが、朝廷が北朝と南朝に分裂して争う南北朝時代でした。

50年もの長きにわたって南北朝の争乱が繰り広げられたのは、後醍醐天皇に対立した足利尊氏が、光厳天皇(こうごんてんのう)を北朝の初代天皇として擁立したことが原因とされています。

しかし、実は、足利尊氏が北朝をつくる以前から、南北朝の争乱の火種は皇室にくすぶっていたのです。

後嵯峨天皇の偏愛が生んだ皇室のいざこざ

鎌倉時代の仁治3年(1242年)、後嵯峨天皇が第88代の天皇として即位しました。

後嵯峨天皇の在位期間は短く、寛元4年(1246年)に若干4歳の後深草天皇に譲位し、自らは上皇となって院政を行い、天皇の後ろから権力を行使し始めます。

後嵯峨上皇には、後深草天皇の他にも皇子がいました。

その皇子は、後深草の弟に当たります。

上皇は、兄の後深草よりも弟の皇子を可愛がっていました。

そして、上皇は、弟の皇子があまりにも可愛かったため、後深草を17歳で退位させ、11歳の弟の皇子を帝位につけます。

これが、亀山天皇です。

兄の後深草は、おとなしい性格だったため、父の強引なやり方に反対することができず、言われるがまま弟に譲位したのでした。

その後、後嵯峨は、次の天皇になる皇太子を後深草の皇子ではなく、亀山の皇子にすることを決めました。

さすがにおとなしい後深草もこれには怒ったそうです。

やがて、後嵯峨は崩御し、今度は後深草に待ちに待った院政を行う番が回ってきました。

幕府も仲裁できなかった兄弟喧嘩

長年、怒りを抑えて我慢してきた後深草が、いよいよ院政を行い権力を行使しようとし始めます。

しかし、これに反対したのが弟の亀山天皇。

両者の仲は悪くなり、ついに兄弟喧嘩が始まってしまいます。

そして、どちらも主張を曲げないため、とうとう鎌倉幕府に調停を願い出ることになりました。

幕府は、後嵯峨の皇太后であった姞子(よしこ)にその御遺志はどうだったのかを確認します。

すると姞子は、後嵯峨は亀山天皇の系統を以降も帝位につける御遺志だったと言いました。

この御遺志が明らかになったことで、兄弟だけでなく、その下に仕える者達までもが二分して争い始めることになってしまいます。

また、後嵯峨は、「永久に亀山の子孫に帝位を継がせ、その代わりに後深草の子孫には180の所領を与えるから帝位につくことは諦めるように」といった遺言も残していました。

これが、亀山天皇の系統を後押しする形となり、亀山は、我が子の後宇多に帝位を継がせます。

そして、自分の望みが断たれた後深草は、何もかもが嫌になり、出家しようとしました。

しかし、後深草が出家してしまうと困る者達がいました。

それは、後深草に仕えていた者達です。彼らにしてみれば、主がいなくなってしまうと生活が脅かされてしまいます。

そこで、彼らは、鎌倉幕府の当時の執権であった北条時宗に何とかして欲しいと願い出ました。

時宗は、争いの原因をいろいろと調べましたが、これは一筋縄ではいかないことがわかりました。

そして、皇室の問題は皇室で解決しないと後々災いとなってしまうから、幕府は介入すべきではないと判断し、その旨を朝廷に伝えます。

その後、皇室で話し合いが行われ、後深草には何も落ち度がなかったのに、亡き後嵯峨によって退位させられたのは可愛そうだから、後宇多天皇の次は、後深草の皇子に帝位を譲ることで合意されました。

両統迭立で一件落着に思えたが

弘安10年(1287年)、後宇多天皇が退位した後、約束通りに帝位は後深草の子の伏見天皇へと譲位されました。

帝位が後深草系統に戻ると、今度は、その臣下の者達が、帝位を亀山系統に再び渡すことを拒もうとします。

そして、後深草系統は、幕府に対して亀山系統が謀反を企てていると嘘の訴えを起こしたのです。

これを知った亀山系統も幕府に対して、後深草系統の悪口を吹き込み、帝位を取り返そうとしました。

さすがに皇室の争いを無視することができなくなった幕府は、遂に両者の間に入って妥協案を提示しました。

それは、両統迭立(りょうとうてつりつ)です。

つまり、10年毎に帝位を後深草系統と亀山系統で順番に継承していくことにしたのです。

この案に両者は納得し、伏見天皇の次に、その子の後伏見天皇が即位した後、約束通りに亀山系統の後二条天皇に帝位が譲位されました。

その後、後二条天皇が急死し、帝位は、後深草系統の花園天皇を経て、再び亀山系統の後醍醐天皇へと戻ります。

以上の後深草系統と亀山系統の関係を表したのが、下の図です。

ちなみに、後深草系統=持明院統(じみょういんとう)、亀山系統=大覚寺統です。

持明院統と大覚寺統の関係

持明院統と大覚寺統の関係

これで、帝位の継承の問題は一件落着したかに思えましたが、この後も争いは続きます。

なんと即位して10年が過ぎても後醍醐天皇が帝位を持明院統に渡さなかったのです。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府が考えた両統迭立に従う意思はなく、それどころか、幕府を滅ぼして平安時代以前の天皇を中心とした政治を行おうと考えていました。

そして、同じように鎌倉幕府を滅ぼすことを考えていた足利尊氏とともに討幕へと突き進み、後醍醐天皇を中心とした政治を行うことに成功したのです。

しかし、足利尊氏は、源氏の血筋であったことから、平家の血筋の北条氏から政権を源氏のもとに取り戻すために鎌倉幕府を滅ぼすことを目的としていました。

そのため、尊氏は、討幕後の後醍醐天皇中心の政治から離脱し、やがて、持明院統から天皇を擁立して後醍醐天皇と争うことになったのです。

なお、南北朝時代の南朝は大覚寺統で亀山天皇系統であり、一方の北朝は、持明院統で後深草天皇系統です。

亀山天皇を可愛がって後深草天皇から帝位を奪ったことが、まさか南北朝の争乱へとつながっていくとは、後嵯峨天皇も考えてはいなかったでしょう。

現在の大覚寺と持明院

南朝が大覚寺統と呼ばれたのは、その系統の上皇の仙洞御所が大覚寺にあったことが由来です。

大覚寺は、現在でも存在しており、春の桜や秋の紅葉の時期には多くの観光客の方で賑わいます。

大覚寺

大覚寺

一方の北朝の仙洞御所は持明院にありました。

そのため北朝は持明院統と呼ばれていました。

現在、持明院は、上京区の光照院の門の前に石碑が残るだけとなっています。

光照院の持明院仙洞御所跡

光照院の持明院仙洞御所跡

歴史の上では、南朝の方が正当とされているためなのか、持明院の方は寂しい姿となっていますね。

なお、大覚寺と光照院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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