百萬遍知恩寺の東にある後二條天皇北白川陵
京都市左京区の百万遍(ひゃくまんべん)の交差点の北東角に浄土宗四カ本山の一つに数えられる百萬遍知恩寺が建っています。 正面には京都大学があり、街は学生で賑わう。 その百萬遍知恩寺から今出川通を東に約3分歩き、左に目をやると、ちょっとした森林が視界に入ります。 森林の前には、石造の鳥居とそれを囲む玉垣。 ここは、後二條天皇北白川陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ)です。
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京都市左京区の百万遍(ひゃくまんべん)の交差点の北東角に浄土宗四カ本山の一つに数えられる百萬遍知恩寺が建っています。 正面には京都大学があり、街は学生で賑わう。 その百萬遍知恩寺から今出川通を東に約3分歩き、左に目をやると、ちょっとした森林が視界に入ります。 森林の前には、石造の鳥居とそれを囲む玉垣。 ここは、後二條天皇北白川陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ)です。
今は、京都らしさの象徴の一つとして観光客から人気の鴨川。 穏やかな流れは、忙しない日々を送る現代人には癒しの風景であり、ただ眺めているだけでストレスが和らぐ人もいるのでは。 でも、その鴨川。 昔は、大雨になると周囲に大きな被害をもたらし、京都に住む者に多大な不安を与えていました。 そういうこともあり、かつての鴨川には、洪水から人々を守るため、治水神が祀られていたと伝えられています。
京都市上京区の京都御苑の東側に京極小学校があります。 その京極小学校の寺町通に面する校舎の近くにいつのまにか「此付近 藤原定家 一条京極第跡」の石碑が立っていました。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時を討伐するために挙兵した承久の乱は、上皇の敗北で終わりました。 その後、上皇は隠岐に流罪となり、延応元年(1239年)に帰京かなわず彼の地で崩御しています。 ということは、後鳥羽上皇の陵墓は隠岐にあるのだろうと思いますが、実は、京都市左京区の大原にあります。 一体どういう経緯で大原に埋葬されたのでしょうか。
京都市左京区に建つ南禅寺は、鎌倉時代に創建された臨済宗のお寺です。 鎌倉時代は、臨済宗や曹洞宗といった禅宗が宋から日本に伝えられ、その後、武家に深く信仰されるようになりました。 また、天皇から篤く崇敬されることもあり、南禅寺もまた亀山天皇が臨済宗に深く帰依したことから創建されています。
浄土宗の開祖法然上人は、建暦2年(1212年)に亡くなり、東山大谷に埋葬されました。 東山には、法然上人が浄土宗の教えを広めた吉水草庵がありましたから、東山大谷に埋葬されるのは自然の流れと言えます。 しかし、現在、法然上人の石棺は東山大谷にはなく、遠く離れた長岡京市に建つ光明寺(こうみょうじ)にあります。
京都市南区の五重塔で有名な東寺から大宮通を少し南に歩いたところに大通寺というお寺が建っています。 観光寺院ではないので、境内に入る人はおらず、自動車の通りが多い大宮通にあっても、ひっそりとした雰囲気を持っています。 そんなことから素通りされてしまう大通寺ですが、歴史的には、源実朝の御台所であった坊門信子(ぼうもんのぶこ)ゆかりのお寺として興味深い一面を持っています。
承久3年(1221年)5月14日。 後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を倒すために挙兵した承久の乱が起こりました。 上皇が、乱を起こす決意をしたのは、現在の京都市伏見区の鳥羽にある城南宮です。
京都市右京区の嵯峨に小倉山を背にして建つ二尊院は、春の桜や秋の紅葉が美しいお寺で、多くの観光客が訪れます。 その二尊院境内の小倉山中腹に法然上人廟が建っており、その中に空公行状碑という石碑が置かれています。 いったい、この空公行状碑は、どういったものなのでしょうか。
京都市中京区の新京極通に誠心院というお寺が建っています。 初代住職となったのは、平安時代の女流歌人である和泉式部です。 歌人が住職になったお寺は珍しいですね。 ところで和泉式部は、どうして誠心院の初代住職となったのでしょうか。