京都市右京区の嵯峨野に建つ常寂光寺の東。
この付近は、小倉餡発祥の地とされ、今も開発されることなく、のどかな景色が残っています。
その北には、石造りの鳥居が立ち、見る人が見れば、すぐに天皇陵もしくは皇族関係者のお墓だと気づきます。
ここは、嵯峨天皇の第8皇女の有智子内親王(うちこないしんのう)の墳墓です。
薬子の変の後に初代斎王になる
有智子内親王のお墓には、JRの嵯峨嵐山駅から北西に約10分歩くと到着します。
正面の入り口には、腰ほどの高さの金属製の簡易な門があり、宮内庁の職員以外は入れないようになっています。
門の後ろには鳥居と玉垣、さらに奥にカエデなどの樹木がうっそうと植わり、ちょっとした森林に。

有智子内親王墓
入り口の宮内庁の案内には、「嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓」と記す。

入り口の案内
有智子内親王はいったいどのような人物なのか。
その経歴は深くわかりませんが、賀茂斎院の初代斎王となった女性であることは知られています。
嵯峨天皇は平城上皇と対立し、薬子(くすこ)の変に発展。
天皇は、賀茂神に祈願し、勝利の暁には皇女を阿礼乙女(あれおとめ)として捧げることを誓います。
結果、天皇は勝利し、有智子内親王を斎王とすることが決まりました。
斎王とは、天皇即位の時に伊勢神宮や賀茂社に精進潔斎して奉仕する未婚の皇女や王女のこと。
有智子内親王は、賀茂社の初代斎王として、京都市北区の紫野にあった賀茂斎院に住まうことになりました。
葵祭の斎王代
賀茂斎院は、その後、35代続き、鎌倉時代の建暦2年(1212年)に後鳥羽天皇の皇女礼子内親王(いやこないしんのう)の退下により廃絶します。
それから744年後の昭和31年(1956年)。
葵祭に女人列が復興され、斎王代が登場するように。

葵祭の斎王代
斎王代は一般の未婚の女性から選ばれる点で斎王とは異なります。
ゆえに斎王代は、斎王の代理という位置づけ。
毎年5月15日に行われる葵祭の路頭の儀では、腰輿(およよ)に乗って斎王代が登場し、その華麗な衣装で沿道の観覧者の目を楽しませています。
薬子の変後に有智子内親王が賀茂斎院の初代斎王となったことが、現在の葵祭の斎王代へとつながっているんですね。
もしも、嵯峨天皇が勝利しなければ、葵祭で斎王代を見ることはなかったかもしれません。