天皇家を二分して50年以上に渡る騒乱が繰り広げられた南北朝時代。
大覚寺統の後醍醐天皇が吉野に開いた南朝に対して、足利尊氏が持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を擁立して開いたのが北朝。
両天皇ゆかりの史跡が、旅行者や観光客で賑わう京都市右京区の嵯峨嵐山に残っています。
後醍醐天皇より明らかに扱いが軽い光厳天皇髪塔
京福電車の嵐山駅を出て、北に1分も歩けば、左手に後醍醐天皇の冥福を祈るため足利尊氏が創建した天龍寺の山門が建っています。
北朝を建てて南朝と敵対した足利尊氏が、なぜ後醍醐天皇の冥福を祈るために世界遺産に登録されるほどの大寺院を創建したのか。
足利尊氏は、対立すれど後醍醐天皇を敬う気持ちが強かったという。
尊氏の「尊」の字は、後醍醐天皇の諱(いみな)である尊治から賜ったものである点からも、それがうかがえます。
造営費用は、天龍寺船を中国大陸に就航させ元との貿易でまかなうなど、創建に対する強い思いが見られます。
一方、山門の向かいに目をやると、石造の玉垣と簡素な門が設けられた、一見空き地とも思えるような敷地があります。
ここは、光厳天皇髪塔(こうごんてんのうはつとう)。
すなわち、光厳天皇の遺髪の埋葬地です。

光厳天皇髪塔
目の前の天龍寺と比較すると、なんとも質素な空間。
足利尊氏が室町幕府を開けたのは、北朝の天皇あってのこと。
その初代天皇である光厳天皇の遺跡が、この扱いとは。
敷地内には、宮内庁の立札が立つ以外に目につくものが何もありません。

光厳天皇髪塔を示す宮内庁の立札
御陵は常照皇寺にある
光厳天皇の生涯は、波乱に満ちていました。
倒幕に失敗した後醍醐天皇は鎌倉幕府によって隠岐に島流しとなり、代わって光厳天皇が即位します。
しかし、倒幕の勢いは止まらず、足利尊氏らが幕府の六波羅探題を落とすと、光厳天皇は後伏見上皇と花園上皇とともに北条仲時に連れられ鎌倉に落ちのびることになりました。
ところが、野武士に何度も襲われた一行は、落ちのびることは叶わずと悟り集団自決。
2上皇とともに取り残された光厳天皇は、後醍醐天皇方に捕縛され京都に戻された後、廃位させられました。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、先にも述べたように光厳天皇を擁立して北朝を開きます。
光厳天皇は、光明天皇に譲位して上皇となりましたが、再び南朝に捕らえられ軟禁されることに。
後に京都に戻れたものの、たびたび政争に巻き込まれたことに疲れて出家した光厳上皇は、法皇となり京北の常照皇寺に隠棲したのでした。
その境内には、光厳天皇の御陵が置かれています。
南北朝の争乱が終結した後、室町幕府が、光厳天皇の冥福を祈るための寺院を創建しても良さそうなものです。
天龍寺の向かいに小さな髪塔だけが置かれているのは、後醍醐天皇との差があまりにも大きい。