南北朝時代一覧

名和長年最期の地・名和長年公遺蹟

延元元年(1336年)6月30日。 後醍醐天皇方の新田義貞と名和長年は、東寺にたてこもる足利尊氏を攻撃しました。 しかし、東寺の東大門は固く閉ざされ、新田義貞と名和長年は、足利尊氏を討ち取ることができませんでした。

八坂の塔は室町幕府が設置した利生塔

朝廷が南朝と北朝に分かれて争った南北朝時代は、多くの犠牲者を出しました。 南朝と対抗するために光明天皇を擁立して北朝とした足利尊氏とその弟の直義は、元弘の変から南北朝の争乱によって犠牲になった人々の霊を慰めることを考えます。 その方法は、奈良時代に聖武天皇が勅願により、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)と国分尼寺(法華滅罪寺)を設置したのをならい、全国に安国寺と利生塔(りしょうとう)を設置するというものでした。

佐々木道誉が勝持寺で催した盛大な花見

貞治5年(南朝の正平21年/1366年)。 現在の京都市西京区の大原野に建つ勝持寺(しょうじじ)で盛大な花見が催されました。 この花見の主催者は佐々木道誉(ささきどうよ)。 佐々木道誉は婆娑羅大名と呼ばれていた人物で、やることなすことが常に派手でした。 婆娑羅(ばさら)とは、遠慮なく勝手にふるまう様のことで、後に傾奇者とも呼ばれるようになります。 当然、佐々木道誉が勝持寺で催した花見も婆娑羅大名らしく派手なものでした。

吉田兼好が隠棲した双ヶ丘・長泉寺

随筆の徒然草を書いたことで有名な吉田兼好は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した人物です。 吉田兼好は、京都市左京区の吉田神社の社家卜部家(うらべけ)に生まれました。 その後、後二条天皇に仕えましたが出家し、修学院や比叡山横川に草庵を結び、晩年は右京区の双ヶ丘(ならびがおか)の麓で隠棲したと伝えられています。

南朝が逆襲に転じた正平の役

正平7年(1352年)に南朝が京都を奪還しようとした正平の役が起こりました。 正平の役は、八幡合戦とも呼ばれており、京都府八幡市で南朝の軍と足利義詮の軍が戦いました。 この頃、室町幕府は、足利尊氏と弟の直義が争っており、南朝はその混乱に乗じて、京都還幸を試みたのです。

太平記・南北朝時代の史跡まとめ

京都には、たくさんの南北朝時代の史跡があります。 京都は、室町幕府ができた場所であり、また、鎌倉幕府の出先機関であった六波羅探題が置かれたところでもあったので、南北朝の争乱の舞台となったんですよね。 私は、過去に京都にある太平記や南北朝時代の史跡を探しては訪れ、ブログで紹介してきましたが、最近、それらの記事数が多くなってきたので、そろそろまとめておいた方が良さそうだなと思っていました。 ということで、この記事で、太平記・南北朝時代の史跡を紹介した記事を一覧にしてまとめておきます。

後醍醐天皇の崩御と天龍寺の造営

延元3年(1338年)5月の北畠顕家の戦死と7月の新田義貞の戦死で、南朝は大きな打撃を受けました。 すでに楠木正成も名和長年もこの世にはいないので、南朝の主だった武将はほとんどいなくなりました。 そのような中、延元4年8月16日に後醍醐天皇もこの世を去りました。

高師直の攻撃で炎上した石清水八幡宮

延元2年(1337年)12月。 東北を出発した北畠顕家は、足利義詮(あしかがよしあきら)がいる鎌倉を攻略し、そのまま一気に吉野に向かって進軍しました。 しかし、青野ヶ原で足利軍と戦って伊勢に敗走、その後も般若坂で敗北し、顕家は行方知れずとなります。

嵯峨野の滝口寺にある新田義貞の首塚

延元2年(1337年)3月に新田義貞の嫡子の義顕と尊良親王(たかながしんのう)がたてこもる敦賀の金ヶ崎城が足利高経によって落とされました。 金ヶ崎城には新田義貞もいたのですが、落城の1ヶ月前に脇屋義助と洞院実世(とういんさねよ)とともに杣山城(そまやまじょう)へ脱出しています。 足利軍は、捕えた恒良親王(つねながしんのう)から、義貞は自害して果てたと聞かされていたので、これで一安心と思っていました。