承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時を討伐するために挙兵した承久の乱は、上皇の敗北で終わりました。
その後、上皇は隠岐に流罪となり、延応元年(1239年)に帰京かなわず彼の地で崩御しています。
ということは、後鳥羽上皇の陵墓は隠岐にあるのだろうと思いますが、実は、京都市左京区の大原にあります。
一体どういう経緯で大原に埋葬されたのでしょうか。
隠岐で火葬された後に分骨が京都に戻る
下の写真に写っている何本もの杉の木が天に向かって伸びている一帯が後鳥羽天皇大原陵(ごとばてんのうおおはらのみささぎ)で、勝林院の近くにあります。
天皇陵にお馴染みの神明型の鳥居が立ち、それを囲むように石造りの玉垣が設けられ、一般人が中に入れないようになっています。

後鳥羽天皇大原陵と順徳天皇大原陵
玉垣の右前には、後鳥羽天皇大原陵と刻まれた石柱が立ち、左前には順徳天皇大原陵と刻まれた石柱も立っています。
ここは、後鳥羽天皇の陵墓であるとともに順徳天皇の陵墓でもあるのです。
順徳天皇は、後鳥羽と藤原重子の間に産まれた第3皇子で、父とともに承久の乱を起こした後、佐渡に配流となっています。
隠岐で崩御した後鳥羽は、荼毘に付された後、遺骨の大部分が当地に埋葬されました。
現在も、隠岐に後鳥羽天皇火葬塚が残っており、以下のウェブサイトに写真が掲載されています。
後鳥羽が崩御した翌年の仁治元年(1240年)にその冥福を祈るため、摂津の水無瀬の御所を京都の大原に移して法華堂が建立されました。
後鳥羽天皇大原陵のすぐ近くに今も法華堂は建っています。
享保21年(1736年)に焼失した後、安永年間(1772-1781年)に再建されたものなので、鎌倉時代当時のものではありません。

法華堂
法華堂を建立したのは、梨本門主尊快親王母公修名門院。
尊快親王は、後鳥羽の第7皇子で、修名門院は藤原重子のこと。
すなわち、尊快親王は、順徳天皇と母を同じくする弟。
後鳥羽の遺骨の一部は、この法華堂に安置されたと伝えられています。
後鳥羽の遺骨の一部を京都に戻したのは、怨霊を恐れたからかもしれません。
後鳥羽の崩御の後、鎌倉幕府の御家人の三浦義村と北条時房が相次いで亡くなっており、怨霊説が囁かれたらしい。
保元の乱で流罪となった崇徳上皇の祟りが記憶に残っている時代ですから、後鳥羽の祟りを恐れたとしても不思議ではありません。
後鳥羽には、当初、顕徳院という諡号(しごう)が贈られましたが、怨霊を恐れて後鳥羽院に改めたとも言われています。
順徳天皇の遺骨も京都に戻る
順徳天皇も、仁治3年に佐渡で崩御した後、その地で荼毘に付され、遺骨が京都に戻っています。
以下のウェブサイトには、佐渡に順徳天皇の火葬塚である真野御陵(まのごりょう)の写真が掲載されています。
後鳥羽が眠る地に埋葬するようにとの順徳の遺命があったのかはわかりません。
ただ、当地に遺骨が埋葬されたことには、母・修名門院の何らかの意思が働いた可能性があるのではないでしょうか。
大原は現在も自然が豊かで、天皇陵の近くからは、お寺と山々が連なる景色を望むことができます。

天皇陵からの眺め
海に囲まれた隠岐や佐渡とは違い、山が間近に迫る大原に埋葬された後鳥羽天皇と順徳天皇。
御所からは遠いものの、帰京の望みがかなった御霊は、大原の静けさの中で安らいでいるに違いない。