祇園祭の山鉾は昔は押小路通まで並んでいた

京都で毎年7月に行われる祇園祭は、平安時代に神泉苑で疫病退散のために行った御霊会(ごりょうえ)が起源とされています。

当初は比較的簡素だった御霊会ですが、疫神を喜ばせることで疫病の流行を防ごうということから、次第に派手になっていきました。

祇園祭の主役は、八坂神社の祭神が乗る神輿ですが、祭を華美に飾り立てているのは山鉾です。

豪華絢爛な懸装品(けそうひん)が注目を集める山鉾は、現在30基あまりですが、かつては50基以上存在していたといわれています。

また、山鉾が建ち並ぶ範囲も、北は押小路通から南は松原通まで及んでいたとされ、夏の洛中は山鉾だらけだったようです。

現在の北限は姉小路通

室町通と新町通を中心に建つ山鉾は、現在、姉小路通が北限です。

三条通の1本北ですね。

その姉小路通近くに建てられるのが、鈴鹿山と役行者山(えんのぎょうじゃやま)で、7月21日から23日までの後祭の宵山の期間に見ることができます。

鈴鹿山

鈴鹿山

祇園祭に山鉾が登場したのは、南北朝時代から室町時代とされており、この頃は、商工業者が経済力を持ち始めた時期でした。

町衆と呼ばれた彼らは、その経済力を誇示するかのように山鉾を豪華に飾り立て、現在見られる山鉾の起源を作ります。

50基以上の山鉾が存在していた時代には、現在の地域だけで山鉾が建っていたわけではなく、姉小路通より2本北の押小路通にも、泉の小次郎山とすて物鉾が建てられたといわれています。

役行者山

役行者山

また、現在、東洞院松原の保昌山(ほうしょうやま)が、山鉾が建つ南東角となっていますが、かつては、もっと東の高倉通まで並んでおり、内裏の花ぬす人山、うかひ舟山、柳の六尺山、こはんもち山といった山が存在していたといわれています。

西は、堀川通を超えた猪熊通にも、朝比奈もん山、那須与一山、くけつのかい山などが建てられていたそうです。

朝比奈もん山とか、くけつのかい山とか、名称だけではどんな山なのか全く想像できませんね。

火災で減った山鉾

50基以上の山鉾があったのに30基あまりまで減少したのは、京都が何度も大火災に見舞われたきたことが原因です。

応仁の乱(1467年)によって祇園祭は33年間中止となるも、明応9年(1500年)に町衆の力で復興し、前祭(さきまつり)は26基、後祭は10基の山鉾が巡行を再開しました。

その後も、宝永の大火(1708年)、天明の大火(1788年)、蛤御門(はまぐりごもん)の変(1864年)と京都は大規模に焼失し、山鉾も被災しましたが、そのたびに復興して山鉾巡行が行われています。

近年も、大船鉾や鷹山が復興を果たして山鉾巡行に参加するようになっていますね。

今後も、失われた山鉾の復活が期待されます。

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