伊藤若冲の『動植綵絵』の売却で境内を取り戻した相国寺

京都市上京区の京都御苑の北に相国寺(しょうこくじ)という臨済宗のお寺が建っています。

マツやカエデなど、たくさんの木々が植わる境内は約4万坪を誇る。

創建したのは室町幕府3代将軍の足利義満。

境内を見渡しながら、さすが将軍ともなると、このような広大な敷地にお寺を造営できるんだなと考えてしまいますが、創建当時は約144万坪もあったというのですから、いったいどれだけの財力を持っていたのか想像することもできません。

明治の上知令で2万7千坪に縮小

相国寺には、地下鉄の今出川駅から東に約5分歩くと到着します。

今出川通から同志社大学と同志社女子大学の間にある道を北に進み、相国寺の総門をくぐると、一直線に延びた石造りの参道に入ります。

まるで、数百年前に戻ったような景観。

参道

参道

今は、お寺の規模に比して参拝者の数は少なく割と静かな境内ですが、創建されて間もない時期から戦乱に巻き込まれるなど、幾多も焼失と再建を繰り返してきた歴史があります。

中でも、室町時代の応仁の乱(1467年)、江戸時代の天明の大火(1788年)などは、相国寺に大打撃を与えています。

そういうこともあり、144万坪あった境内は、江戸時代末期には7万坪にまで縮小しました。

さらに明治維新の神仏分離令と2度の上知令(あげちれい)が相国寺を襲う。

神仏分離令に端を発した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は、全国の寺院への攻撃に発展。

多くのお寺がこの時に消滅し、また、現存するお寺も大きな被害を受け貴重な文化財が失われています。

相国寺も、廃仏毀釈の影響で財政難となり、『仏教抹殺』という書籍によれば、明治4年(1871年)と同8年の上知令で4万3千坪が没収され、寺域は2万3千坪まで縮小したという。

境内中央に建つ慶長10年(1605年)再建の法堂(はっとう)は、廃仏毀釈の被害を受けたのかはわかりませんが、今も再建当時の姿をとどめています。

法堂

法堂

廃仏毀釈に対しては、相国寺の第126世住持の独園承珠(どくおんじょうじゅ)が、仏教界の信頼を取り戻すために活動し、また当寺の財政再建にも尽力しています。

伊藤若冲が財政難を救う

しかしながら、相国寺の財政難は続く。

困窮して削った境内も多く、同志社大学や同志社女子大学も、もとは相国寺の一部でした。

当寺の窮乏を救ったのは、江戸時代中期の画家・伊藤若冲でした。

明治にはすでに他界してますが、生前に相国寺と縁があり、彼のお墓も宝塔の北西に位置する墓地にあります。

宝塔

宝塔

若冲は、対をなす『釈迦三尊図』3幅と『動植綵絵(どうしょくさいえ)』30幅を相国寺に寄進しています。

相国寺は、このうち、『動植綵絵』30幅を明治22年に売却し、その資金で手放した土地を取り戻しました。

売却先は当時の宮内省で、売却額は1万円。

現代の貨幣価値にすると数億円とのこと。

『動植綵絵』は、現在、皇居三の丸尚蔵館が所蔵しており、そのウェブサイトで30幅すべての画像を閲覧できます。

伊藤若冲と言えば、鶏の絵がよく知られていますが、『動植綵絵』の中にも鶏が見られ、若冲らしさがうかがえます。

一方の『釈迦三尊図』は、今も相国寺が所蔵しており、承天閣美術館で公開されたこともあるようです。

法堂の裏側

法堂の裏側

いつも静かで、穏やかに時が流れてきたように感じられる相国寺の境内。

しかし、144万坪から4万坪まで縮小した事実を知ると、大寺院を600年も維持することは容易ではなく、激動の時代を何度も潜り抜けてたどり着いた静寂なのだと気付かされます。

なお、相国寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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