京都市下京区の京都駅の近くに東本願寺が建っています。
その東本願寺から東に3分ほど歩くと、当寺の飛地境内の渉成園(しょうせいえん)があります。
渉成園を拝観すると、立派なパンフレットを1部いただけます。
パンフレットには4種類あり、その中の「人物往来記 後編」では、幕末に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と将軍後見職の一橋慶喜が、渉成園を訪れたことが記されています。
大坂から二条城に戻る途中に立ち寄る
徳川家茂は、文久2年(1862年)に孝明天皇の妹の和宮を妻として迎えます。
当時、江戸幕府は衰えていた権威を回復するため、朝廷と協力して国難にあたる公武合体を進めていました。
家茂と和宮の結婚は、この公武合体のための政略結婚です。
一方で、朝廷内では、天皇を中心とし、外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の意見が強まっていました。
尊王攘夷派は、政治体制の改革と和宮降嫁のお礼を述べさせるため、将軍家茂の上洛を画策します。
そして、上洛した家茂に攘夷決行の期日をはっきりと決めさせようとしていました。
ちなみにこの将軍上洛に先立って結成された浪士組のうち、京都に残留した者たちで結成されたのが新撰組です。
文久3年3月に上洛した徳川家茂は、3月に孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂行幸にお供します。
さらに同年4月に石清水行幸も行われましたが、この時には、家茂は病気のため一橋慶喜が代わりにお供することになりました。
そして、4月20日に幕府は、5月10日を攘夷実行の期限と決定させられました。
この後、尊王攘夷派の攻撃から逃れるため、徳川家茂は、大坂へ向かい、軍艦奉行並の勝海舟の案内で、摂海防御の巡覧を行い、5月10日まで大坂に滞在し、翌11日に京都に戻りました。
幕府の京都の拠点は二条城でしたが、徳川家茂は、入洛後すぐには二条城に向かわず、東本願寺に立ち寄りました。
徳川家茂は、最初に渉成園の庭園を見て回り、その後で、東本願寺に入っています。
そして、文久2年に幕閣のすすめで幕府御用材を用いて境内に造営された東照宮御別堂に拝礼し、御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂にも参拝しました。
小寝殿(こしでん)で茶菓子の接待を受けた徳川家茂は、その後に二条城に戻っています。
「人物往来記 後編」によると、徳川家茂が、東本願寺を訪れたのは、その1ヶ月ほど前に東本願寺宗主の厳如(ごんにょ)上人が二条城を訪れ、黒書院で対面したことに対する答礼が理由ではないかとのこと。
徳川家茂の猶子となる
厳如上人は、その後も、たびたび二条城を訪れています。
徳川家茂も、元治元年(1864年)2月1日に緊急時の将軍立ち退き場所に渉成園を再指定し、同月12日には、一橋慶喜、松平慶永、老中らとともに東本願寺と渉成園を訪れ、園内を遊覧した後に書院で接待を受けています。
さらに5月5日には、厳如上人が二条城を訪れ、その時に徳川家茂から彼に猶子とする旨の通知をしています。
猶子とは、通常の養子関係のように相続などには関係しない仮の養子関係のことです。
当時、徳川家茂は19歳、厳如上人は48歳でした。
徳川家茂が厳如上人を猶子としたのは、身内のように信頼していたということでしょう。
しかし、池田屋事件の後、同年7月18日にその報復のため、長州藩が軍勢を率いて上洛し御所に乱入する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こると、京都の町は火の海となり、東本願寺も、そのどさくさに紛れて何者かによって放火され消失してしまいました。
この時の焼失で、東本願寺は影響力を失います。
慶応2年(1866年)7月。
徳川家茂は、病気により、この世を去りました。
厳如上人は、家茂の病床に見舞品を贈ったそうで、その死後には、猶子として親族同様の形で喪に服したとのこと。
一橋慶喜も旅館として利用した
徳川家茂の死後は、一橋慶喜が徳川宗家を継承し、15代将軍徳川慶喜となりました。
彼もまた、文久3年に東本願寺や渉成園を訪れています。
同年1月5日から4月23日までの約3ヶ月間、東本願寺を旅館として利用しています。
また、11月26日から12月21日までの期間も、東本願寺と渉成園を旅館としています。
一橋慶喜は、東本願寺を宿所としたことを謝し、「渉成園」の扁額を贈っています。
蛤御門の変で焼失した東本願寺は、明治に入ってから復興が行われ、明治28年(1895年)4月に御影堂と阿弥陀堂が再建されました。
この再建の時に使われた大橇(おおぞり)は、今も、御影堂と阿弥陀堂の間の廊下に展示されています。
東本願寺の復興には、幕末に江戸幕府と対立した岩倉具視が尽力しました。
彼の三男であった具経(ともつね)と厳如上人の八女の梭子(おさこ)が結婚。
その縁で、明治に入ってから東本願寺の教団内で起こっていた派閥争いを収めるため、明治16年6月3日に渉成園を訪れ、東本願寺の首脳陣を集めて和解を促し、当事者はそれを受け入れました。
さて、明治に入ってから徳川慶喜は、政治の表舞台から姿を消しました。
幕末の動乱から約半世紀が経過した明治44年4月。
東本願寺では、親鸞聖人六百五十回御遠忌が勤められ、それを記念して、徳川慶喜から以下の和歌が献じられました。
忘れじと ちかひしことも 夢とのみ きえ行く世こそ はかなかりけれ
蛤御門の変で焼失した東本願寺でしたが、今では、立派に諸堂が建ち並んでいます。
また、渉成園では、四季折々の風景を楽しむことができるようになっています。
京都駅から近く、観光客がよく訪れる現在の東本願寺や渉成園からは、幕末に政治の舞台であったことは想像しにくいですね。
なお、東本願寺と渉成園の詳細については以下のページを参考にしてみてください。