石清水行幸で一橋慶喜が孝明天皇から節刀を受けなかったのはなぜ?

文久3年3月11日の孝明天皇の賀茂行幸で、外国人を日本から追い出すための攘夷祈願(じょういきがん)が行われた後、今度は、八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への行幸が行われることになりました。

石清水行幸では、幕府に外国人を追い払う攘夷実行を誓約させることが目的で、画策したのは賀茂行幸と同じく長州藩とそれに加担する公卿たちでした。

体調不良で徳川家茂はお供を辞退

石清水行幸の日取りは、4月11日に決定しました。

今回の行幸でも、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が孝明天皇のお供をする予定です。

そもそも何故、攘夷祈願を石清水八幡宮で行うことになったのでしょうか。

石清水八幡宮は、平安時代から源氏の氏神として信仰されていました。

徳川家も源氏の流れをくむので、石清水八幡宮は、特別な神社であったわけです。

その石清水八幡宮で、将軍が、天皇から攘夷のために節刀(せっとう)を受ければ、天皇の軍隊の指揮官となり、幕府が率先して外国人を日本から追い出さなければならなくなってしまいます。

すでに開国してしまった幕府としては、外国人を追い出すことはできませんし、かと言って、攘夷を望む孝明天皇の意向を無視することもできません。

幕府を困らせようという長州藩の狙いは、ここにあったわけですね。

幕府としても、長州藩のたくらみを知らなかったわけではありません。

もしも将軍が天皇から節刀を受ければ、攘夷を実行しなければならなくなります。しかし、開国した手前、攘夷実行は不可能なので、何とかして断りたいといのが幕府の本音です。

幸か不幸か、行幸の前日に徳川家茂は体調を崩したため、石清水行幸に同行できなくなりました。

仮病ではないかともいわれていますが、真相はわかりません。

宮中を飛び出した攘夷派公卿の中山忠光が、石清水行幸の際に将軍を暗殺しようとしているという噂があったので、大事にならないようにお供を辞退したということだったのかもしれません。

結局、4月11日の石清水行幸では、将軍後見職の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)がお供をすることになりました。

下痢で節刀を受けられず

そして、石清水行幸の日がやってきました。

京都御所は、現在の京阪電車の神宮丸太町駅近くにあり、石清水八幡宮は八幡市駅にあります。

各駅停車だと、30分程度の時間がかかるので、電車のなかった当時では、丸1日かけて御所から石清水八幡宮に行ったことでしょう。

石清水八幡宮

石清水八幡宮

石清水八幡宮に到着し、いよいよ節刀を孝明天皇から一橋慶喜に授ける御拝(ぎょはい)の儀式が行われることになりました。

しかし、孝明天皇が節刀を授けようとしたところで、一橋慶喜が儀式に出席していないことがわかりました。

慶喜は一体どこに行ってしまったのでしょうか。

どこに行ったも何も、慶喜は急な下痢のため、儀式に出席することができなかったのです。

石清水八幡宮は、男山の頂上に建っていますが、慶喜はそこまで登ることができず、ふもとで休んでいたのです。

このため、慶喜は節刀を受けることができず、幕府はこの時、攘夷実行を誓約せずに済んだのでした。

なお、慶喜の下痢は仮病だったのではないかと噂されていますが、真相は明らかではありません。

この後、徳川家茂は、朝廷に攘夷決行を5月10日と宣誓し、当日、長州藩が下関で外国船を砲撃する事件が起こりました。

当然ながら、長州藩は、武器の性能の違いから外国艦隊に完膚なきまでに打ちのめされました。

また、京都では、攘夷派公卿たちと偽の天皇の命令を乱発したため、孝明天皇の怒りを買い、石清水行幸の次に予定されていた大和行幸は取りやめとなり、八月十八日の政変で、長州藩は京都から追放されることになりました。

なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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