八月十八日の政変から蛤御門の変までのまとめ

最近、八月十八日の政変に関係した記事ばかりですが、今まで書いた個別の記事だけでは、事件の全体がわかりにくいと思います。

そこで今回は、時間を追うような感じで事件の内容をまとめてみました。

孝明天皇は外国人が嫌いだった

幕末、日本は開国して諸外国と国交を結ぶこととなりましたが、外国人が日本に出入りすることを嫌っていた人々も多くいました。

その中の一人が孝明天皇です。

この孝明天皇の意思を尊重すべきだと言って、外国人を日本から追い出そうという考え方が尊王攘夷(じょうい)です。

尊王攘夷を特に大声で叫んでいたのが長州藩で、その考え方を支持する人々は、自分達を勤王の志士と称して、反対派を暗殺するテロ行為を京都で行っていました。

そんな中、孝明天皇は文久3年(1863年)4月に八幡市の石清水八幡宮に外国人が日本を荒らさないようにと攘夷祈願をします。

これを知った尊王攘夷派は勢い付き、幕府に外国人を日本から追い出すように迫ります。

そして、幕府は尊王攘夷派の要求をのみ5月10日を攘夷決行の日とすることを約束したのです。

長州藩の行き過ぎた行為に怒った孝明天皇

幕府が攘夷決行を約束した5月10日が到来すると長州藩は、下関を通過する外国船を砲撃し始めます。

しかし、武器で劣る長州藩は、外国船の逆襲を受け、あっという間に負けてしまいました。

長州藩が外国船を砲撃したことを知った孝明天皇は愕然とします。

天皇は、ただ外国人が嫌いだと言うだけで、戦争を好んでいたわけではなかったからです。

そして、5月20日にさらなる事件が起こります。

尊王攘夷派の公卿の一人である姉小路公知(あねのこうじきんとも)が薩摩藩の田中新兵衛に暗殺される猿ヶ辻の変が起こったのです。

薩摩藩は、長州藩とライバル関係にあり、京都でいろいろと朝廷工作を行っていたのですが、この事件で失脚しました。

ライバルがいなくなった長州藩は、公卿の三条実美(さんじょうさねとみ)とともに偽の勅命(てんのうの命令)を乱発して京都で好き放題にやります。

そして、遂に孝明天皇の大和行幸を画策する偽勅を発した時、孝明天皇の怒りが爆発します。

長州藩と三条実美らの公卿は、孝明天皇を大和に連れ出し、神武天皇陵を参拝させ、そのまま討幕に突き進もうと企んでいたのです。

しかし、孝明天皇にはそのような意思はなく、好き勝手やっている長州藩を京都政界から追い出すこととしました。

8月18日未明。

長州藩が京都御所の警護を解任されるクーデターが起こります。

これが八月十八日の政変です。

この政変によって、長州藩と三条実美ら7人の公卿は京都から追放されたのです。

大和行幸を信じた天誅組

孝明天皇の大和行幸の実現を信じて凶行に及んだ者達がいました。

その者達は、吉村寅太郎を中心とした天誅組です。

彼らは、大和行幸に先立って、8月17日に大和に入ります。

そして、討幕の足掛かりとして、五条代官所を襲撃しました。

しかし、その翌日に京都でクーデターが起こり、世論は朝廷と幕府が協力する公武合体へと変わったため、尊王攘夷を掲げる天誅組は孤立し、遂に幕府から追討の命を受けた諸藩によって壊滅させられてしまいました。

この一連の事件を天誅組の変と言います。

天誅組の決起と呼応するように生野で決起した人物がいます。

その人物は、平野国臣(ひらのくにおみ)。

しかし、彼が決起してすぐに天誅組が壊滅し、諸藩が平野らの追討にすばやく動いたため、平野は捕えられ、京都の六角獄舎に投獄されました。

この平野国臣の決起が生野の変です。

偽勅に踊らされた因幡鳥取藩

天誅組が五条代官所を襲撃した8月17日に因幡鳥取藩でも事件が起こります。

鳥取藩では、ある重役が大和行幸の勅命が偽物であるとわかっていたため、藩主の池田慶徳に大和行幸の件を伝えませんでした。

この重役の行為に憤慨したのが、尊王攘夷派の22人の因幡藩士です。

彼らは、藩の重役4人のうち3人を斬り、1人を切腹に追い込みました。

しかし、翌日の8月18日に政変が起こったため、事件を起こした藩士達は謹慎させられます。

この事件を本圀寺事件と言います。

長州藩が京都に乱入

文久3年8月18日まで京都の町を肩で風を切って歩いていた長州藩とそれを支持していた尊王攘夷派達は、この日を境に指名手配犯となります。

京都に潜んでいる者達は、新撰組などによって捕えられたり斬られたりと今までとは全く逆の立場となってしまいました。

そして、元治元年(1864年)6月に長州系浪士達が密会をしていた現場に新撰組が乗り込み一網打尽とする池田屋事件が起こります。

この事件を知った長州藩の怒りが爆発。

池田屋事件から1ヶ月後、長州藩はとうとう京都に乱入し、御所に向かって攻撃を始めました。

しかし、御所を守っていた会津藩や薩摩藩に敗れ、長州藩は退却。

この長州藩の京都乱入を蛤御門の変と言います。

蛤御門の変は、長州藩が唱えてきた尊王を完全に否定する行為ですね。

また、孝明天皇をないがしろにして偽勅を乱発してきたことを考えると、尊王攘夷は単に政界で優位な立場を築きあげるためのお題目でしかなかったと言えます。

そして、政界で優位に立ちまわっている長州藩に近付いて、自らの地位を高めようとしたのが天誅組などの過激派だったのではないでしょうか。

これに対して天誅組の変は、明治維新の導火線となったと評価する考え方もあります。

歴史上の事件は、見方が変われば、その評価も違ってきますね。

現在、京都御所は、春と秋に一般公開が行われ、多くの観光客の方が訪れます。

春と秋に特別公開される京都御所

春と秋に特別公開される京都御所

御所内の雅な装飾を観ていると幕末の動乱が想像できませんね。

しかし、御所の西側にある蛤御門には、当時の銃弾の痕が残っており、幕末の激動を今に伝えています。

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