本圀寺事件はもう1日思案すれば起こらなかった?

幕末の京都では、天誅と称したテロ行為が頻繁に起こっていました。

その多くが、尊王(天皇を敬うこと)や攘夷(じょうい=外国人を追い出すこと)を主張し、反対派を襲撃するというものでした。

このようなテロ行為の中で、大事件でありながら、歴史上はあまり知られていない事件が文久3年(1863年)8月17日に起こります。

その事件の名は、後に本圀寺事件とか因幡二十士事件と呼ばれるようになります。

出世のために流行を利用

事件は、因幡鳥取藩の重役とその部下との議論が発端となって起こります。

重役の名は黒部権之助、部下の名は堀庄次郎。

議論の内容は、黒部の幕府を支援すべきという主張と堀の尊王攘夷の主張がぶつかり合うというものでした。

鳥取藩の藩主は、水戸藩の徳川斉昭の子の池田慶徳で、彼の兄は後に15代将軍となる一橋慶喜です。

このような藩主の立場を考えると幕府を支援すべきという黒部の主張こそが正論と言えます。

しかし、時代は尊王攘夷が流行の最先端。

堀は、この流行に乗っかって重役たちを排除し出世しようと考えていたのです。

鳥取藩で幕府支援か尊王かという議論が行われている中、文久3年8月上旬に京都政界では、三条実美(さんじょうさねとみ)らが孝明天皇の大和行幸を画策し、討幕へと突き進もうという主張をし始めます。

そして、大和行幸の勅命(天皇の命令)が下されることになるのですが、実は、この勅命は三条実美が仕組んだ偽物。

勅命は鳥取藩にも下されましたが、重役の黒部はそれが偽物だったことを知っていたため、藩主の慶徳に報告することなく、握りつぶしました。

これを知った尊王攘夷を主張する若い藩士達は、黒部とその他の重役3人の暗殺を計画します。

もちろん、彼らの背後には、出世を目論む堀庄次郎がいました。

本圀寺で凶行

8月17日、東山区にある知恩院の塔頭(たっちゅう)寺院の良正院に22人の鳥取藩士が集合します。

その22人のリーダーは、河田左久馬。

彼らの目的は、重役の黒部権之助、高津省己、早川卓之丞、加藤十次郎の4人を暗殺すること。

その夜、22人の藩士達は、二手に分かれて、三条通と五条通を西に向かっていました。

その先には、重役達が宿泊している本圀寺があります。

そして、本圀寺に到着した河田達22人は、天誅と称して、黒部、高津、早川を殺害。

加藤は、その時、油小路の藩邸にいましたが、後に切腹させられます。

わずか数時間で事態が一変

河田ら22人の凶行は、後に咎められ罰を受ける危険がありました。

そのため河田は、三条実美と有栖川宮宛てに斬奸趣意書というものを書いていました。

簡単に言うと「自分達は正義のために事件を起こしたので、命を助けてもらえるように藩主を説得してください」というものです。

しかし、事件後、わずか数時間で事態は一変します。

8月18日未明に尊王攘夷派の三条実美ら7人の公卿と彼らを支持していた長州藩が京都から追放されてしまったのです。

これにより京都政界は、尊王攘夷から朝廷と幕府が仲よくする公武合体へと変わったのです。

この時、22人の藩士のうち新庄常蔵が、京都の町が騒がしいため、事態を確認しに行ったところを幕府方に捕えられ、投獄されています。

また、奥田万次郎は、暗殺した重役の中に世話になった者がいたことを苦にして18日に切腹しています。

そのため、本圀寺事件は、因幡二十士事件と呼ばれています。

なお、新庄と奥田については、早乙女貢の「若き獅子たち」の中で上記とは異なる記述がされています。要約すると以下のような内容です。

新庄は、8月18日の政変を知って動揺して祇園の馴染みの芸者の菊乃のもとに向かったのですが、彼を尾行していた奥田が菊乃と会っている現場を目撃します。

そこで、奥田は新庄を斬り、良正院に戻った後切腹しました。

もしも、河田達22人が、もう1日凶行に及ぶ日を遅らせていれば、8月18日の政変が起こっていたので、この事件は発生していなかったかもしれませんね。

謹慎処分と仇討願い

河田ら20人は、堀が藩主慶徳を説得したこともあり、有栖川宮邸でかくまわれた後、伏見藩邸で謹慎することとなります。

これにより彼らの命は守られたのです。

しかし、亡くなった4人の重役の遺族達が、藩に仇討願いを出し受理されたことから、彼らの身の安全は保障されたわけではありませんでした。

それから約1年後の元治元年7月。

京都に長州藩が乱入する蛤御門の変が起こりました。

鳥取藩は、長州藩と同じ思想を持つ河田ら20人を京都に置いておくのは危険と判断し、伯耆黒坂へと身柄を移し、3組に分けて謹慎させます。

なお、蛤御門の変で鳥取藩は、長州藩と敵対します。

そのため、本圀寺事件の後、望み通り出世した堀庄次郎は、尊王攘夷派の沖剛介と増井熊太に暗殺されました。

暗殺した2人は、藩主慶徳の命により切腹させられています。

脱走して長州へ

本圀寺事件から3年後の慶応2年(1866年)7月27日。

遂に重役4人の遺族達に仇討の機会が訪れます。

河田ら20人は、藩の警護により謹慎していたので、遺族達は仇討することができない状況で長い歳月を過ごしてきました。

しかし、この年、幕府が第2次長州征伐を行い、河田らはこの機会に長州藩に向かうために脱走したのです。

河田ら20人は、舟に乗って長州に向かいましたが、途中で4人が舟から降り、陸路長州へと向かうことになりました。

そして、4人は庄屋の家で宿泊することにします。

4人の居場所を知った遺族達は、その夜、庄屋宅を囲みます。

その数は18人。

結局、数で劣る4人は、遺族達に討ち取られてしまいました。

しかし、残る16人はこの後も仇討されず、生き延びることになります。

なお、本圀寺事件については、下記のサイトやブログで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。

現在の本圀寺

本圀寺事件が起こった時と現在では、本圀寺の場所は異なっています。

事件当時は、現在の京都東急ホテル付近に建っていたのですが、昭和になってから、山科区に移転しています。

本圀寺境内

本圀寺境内

境内には、金色の鐘楼や金色の鳥居など金色で装飾された建造物がたくさんあります。

以前に本圀寺に訪れた時の内容は、以下の記事で紹介していますので、ご覧になってみてください。

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