幕末、吉村寅太郎という人物がいました。
天保8年(1837年)に土佐藩の庄屋の子として生まれた彼は、武市半平太の教えを受け、やがて、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤王党に加わります。
その後、文久2年に脱藩して、尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を日本から追い出すこと)のために働く目的で上洛しました。
上洛するもすぐに土佐へ逆戻り
脱藩した寅太郎は、長州系の過激浪士達と交わります。
そんな中、島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛。
久光の上洛の目的は、幕府と朝廷が協力して国政を行うという公武合体を実現するためのもの。
しかし、寅太郎は、久光の上洛を倒幕のためと思いこみました。
寅太郎と同じように久光の上洛を倒幕と考えた者達は多く、久光の真意を知った彼らは、自分たちだけで、倒幕のために決起しようと考え、伏見の寺田屋に結集。
この過激派の行動を知った久光は、薩摩藩士を寺田屋に向かわせ説得を試みます。
この時、薩摩藩士同士で斬り合うという寺田屋事件が起こりましたが、最終的には、過激派の決起は阻止されました。
寅太郎は、薩摩藩から土佐藩に引き渡され、投獄されることになります。
再び上洛し討幕を画策
土佐で半年以上投獄された後、釈放された寅太郎は、文久3年に再び上洛。
そして、以前のように過激浪士達と交わります。
この頃、京都では、長州藩とそれを支持する三条実美(さんじょうさねとみ)などの公卿が偽の勅命(天皇の命令)を乱発して、反尊王攘夷派を政界から追い落としていました。
邪魔者を次々と排除していった長州系の尊王攘夷派は、朝廷を牛耳り、遂には孝明天皇の大和行幸を画策。
行幸の目的は、大和の神武天皇陵で攘夷祈願を行い、そして、伊勢神宮で参拝した後、東海道を通って江戸へ向かい、天皇自らが出馬し討幕を行うというもの。
この計画には、吉村寅太郎も加担していました。
天誅組結成
寅太郎は、討幕のために方広寺にたくさんの武器を集めていました。
そして、文久3年8月13日に三条実美の画策によって大和行幸の偽の詔勅が発せられます。
寅太郎は、天皇家と関係の深い中山忠光を担ぎあげ、8月14日に数十名の浪士とともに方広寺に集まり、孝明天皇の大和行幸に先だって、大和へと旅立ちました。
寅太郎は、自分たちのことを御親兵と称し、後に天誅組と呼ばれるようになります。
暴走する天誅組
8月17日。
天誅組は、大和国の五条に到着します。
そこには、五条代官所がありました。
当時、代官は幕府の役人であったことから、天誅組は手始めに五条代官所を襲撃することを決定。
そして、無抵抗な代官鈴木源内達5人を惨殺しました。
一方、京都では、三条実美のやり方に反感を持っていた中川宮が、孝明天皇に彼らが偽の勅命を乱発し討幕を画策していることを伝えます。
事実を知った孝明天皇は怒り、中川の宮は大和行幸を中止。
さらに長州系の公卿を御所から追い出すことにしました。
天誅組が五条代官所を襲撃した翌日の8月18日に長州藩と三条実美ら7人の公卿が京都政界から追放され、政局は公武合体へと変わることになります。
天誅組の末路
三条実美は平野国臣(ひらのくにおみ)を使者として、天誅組が暴走しないように命じていました。
しかし、平野国臣が到着した時は、天誅組はすでに五条代官所を襲撃した後でした。
19日に大和行幸が中止になったという知らせが、寅太郎らのもとに届く。
それでも天誅組は、自分たちを天皇の勅命を受けた組織だと主張し、高取藩に武器弾薬の供出を要求し、兵士を募集して十津川郷士を天誅組に加入させていました。
その後、天誅組はさらに高取藩に対して兵糧を差し出すように要求しますが、その時には、京都守護職から高取藩などの各藩に天誅組を捕えるように指令が下っていました。
兵糧の差出を拒んだ高取藩に対し天誅組は攻撃を始めましたが、反撃に遭い、あっという間に敗北。
その後、天誅組は夜襲をしかけますが、これも失敗。
それどころか、寅太郎は味方の撃った鉄砲の弾に当たって怪我を負うことに。
以降は、各藩が天誅組の討伐に動き出し、天誅組は壊滅。
吉村寅太郎も逃げ続けましたが、9月27日に討ち取られてしまいました。
吉村寅太郎寓居跡
現在の京都市中京区の木屋町三条には、吉村寅太郎が仮住まいしていた場所を示す「吉村寅太郎寓居跡」の石碑が建っています。

吉村寅太郎寓居跡
上の写真ではわかりにくいですが、中央2本の石碑の右側の奥にある石碑が吉村寅太郎寓居跡の石碑です。
ちなみに中央の左側の石碑は、土佐勤王党を結成した武市半平太の寓居跡の石碑です。
なお、文久3年に起こした天誅組の事件は、天誅組の変と言われています。