朝鮮通信使が宿泊した大徳寺

天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。

この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。

しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。

慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。

そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。

使者を朝鮮に派遣し国交回復に乗り出す

徳川家康は、慶長5年(1600年)に朝鮮に使者を遣わし、その際、朝鮮から連れてきた被虜人200名を送還しました。

その後、家康は、慶長10年に朝鮮側の使者の松雲大師惟政(ソンウンデサユジュン)と伏見城で会見し、朝鮮への再出兵の意思がないことを伝えました。

これにより、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日し、国交回復が実現します。

この時の朝鮮側の使節団は回答兼刷還使(朝鮮通信使)と呼ばれ、朝鮮国王の回答国書を携行し、戦中の民間被虜人を連れ帰ることを目的としていました。

なお、朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日しています。

朝鮮通信使は、江戸に向かう途中、京都に滞在しました。

そして、慶長12年、元和3年(1617年)、寛永元年(1624年)の3回の来日では、京都市北区の大徳寺に宿泊しています。

大徳寺の総門

大徳寺の総門

大徳寺に朝鮮の使者が宿泊したのは、朝鮮通信使が最初ではありません。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉が、朝鮮国の朝貢入洛を求めた際にも、宿館として大徳寺が利用されています。

これが、朝鮮通信使の京都での宿泊に大徳寺が利用された理由ではないかと考えられています。

約7千人の被虜人が朝鮮に送還される

朝鮮通信使は、大徳寺境内に建つ塔頭(たっちゅう)寺院に宿泊しました。

大徳寺に設置されていた「朝鮮通信使ゆかりの地」の説明書によると、1回目の朝鮮通信使の正使らは天端院、その他の随員は総見院真珠庵を宿館としたようです。

また、護衛の対馬藩主や五山僧は、興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊しました。

総見院

総見院

天端院は、現存していませんが、この寺院は豊臣秀吉が母の大政所(おおまんどころ)の菩提を弔うために創建したと伝えられています。

京都での滞在中、朝鮮通信使は、京都所司代が呼んだ蹴鞠や猿回しで歓待されました。

文禄・慶長の役で朝鮮から日本に送られた被虜人は数万人に及ぶとされており、その中で、朝鮮に戻ることができたのは約7千人でしかありませんでした。

朝鮮通信使の一行を沿道から涙を流しながら見ていた朝鮮の女性がいたともいわれています。

4回目以降の朝鮮通信使の来日で京都の宿館とされたのは、9回目の本能寺を除き、六条堀川の本国寺でした。

本国寺跡を示す石柱

本国寺跡を示す石柱

本国寺は、後に本圀寺と改称し、昭和に山科に移転しました。

六条堀川の跡地には、本国寺があったことを示す石柱が立っています。

また、京都市東山区の豊国神社の近くには、秀吉の朝鮮出兵の際に日本軍が持ち帰った朝鮮兵たちの耳や鼻を埋めた耳塚が今も残っています。

なお、大徳寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

宿泊



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