元和元年(1615年)に起こった大坂夏の陣で、豊臣家は滅びました。
徳川家康は、豊臣家を滅ぼすためにあれこれと画策をして戦の口実を作り大坂城を攻めたわけですが、その前に豊臣秀吉が子の秀頼のために残した莫大な資金を使わせて経済的に疲弊させようとします。
そのために家康が考えたのが、豊臣家に各地の寺社を再建させることでした。
寺社の再建には多額の資金が必要になります。なので、豊臣家の莫大な金銀を消費させるには、ちょうど良かったんですね。
秀頼の名で再建した寺社は様々なところにありますが、その中でも、京都の有名な寺社に多額の資金が使われています。
方広寺
京都市東山区の方広寺には、かつて豊臣秀吉が造立した大きな大仏がありました。
しかし、火災で焼失したため、家康は秀頼の名で再建することを豊臣家に提案します。
これに応じた豊臣家は、慶長13年(1608年)から再建を開始し、同19年に大仏開眼供養が行われました。
方広寺の大仏は、秀吉が造立したものよりも豪華な材料を使っていたので、相当な費用が掛かったはずです。
せっかく多額の資金を投じて再建した方広寺でしたが、釣鐘に「国家安康」と「君臣豊楽」の文字が刻まれていたことに家康が難癖をつけたため、大坂の陣が始まりました。
方広寺の再建は、豊臣家を滅亡に導いた工事だったんですね。
豊国神社
方広寺の隣に建つ豊国神社も、秀頼が楼門を再建しています。
豊国神社には豊臣秀吉が祀られているので、家康が、秀頼に出費させるのは容易だったでしょうね。
北野天満宮
天正15年(1587年)に豊臣秀吉が北野大茶会を催したのが、北野天満宮の周辺です。
なので、北野天満宮は豊臣秀吉とゆかりのある神社と言えます。
そういった事情もあったのでしょうか。
慶長12年に北野天満宮の本殿を豊臣秀頼が再建しています。
家康が、「お父上ゆかりの神社だから立派な本殿に修復しましょう」とすすめたのであれば、秀頼も嫌とは言えなかったことでしょう。
北野経王堂
北野天満宮の東にある千本釈迦堂の境内に建つ北野経王堂も豊臣秀頼の再建です。
現在は、お堂がひとつだけ建っていますが、足利義満が創建した当時は、東山の三十三間堂の倍半もある大堂だったそうです。
秀頼が再建したのは慶長12年ですが、その後、江戸時代に衰退し明治の廃仏毀釈で廃絶しています。
醍醐寺
京都市伏見区の醍醐寺は、豊臣秀吉が盛大にお花見を催したお寺です。
そういった縁からか、秀吉が紀州根来から移築を計画し、秀頼の時代の慶長5年に完成しています。
また、仁王門も、秀頼が慶長10年に再建しています。
上醍醐の開山堂も慶長11年に秀頼が再建したものです。
東寺
五重塔で有名な東寺の建物にも豊臣秀頼の再建のものがあります。
そのひとつが南大門です。
南大門の再建は慶長9年。
また、境内にある金堂は、その前年の慶長8年に片桐且元を奉行として再建しています。
金戒光明寺
京都市左京区の黒谷にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の阿弥陀堂は、慶長10年に豊臣秀頼によって再建されました。
金戒光明寺では、この阿弥陀堂が最も古いお堂です。
真如堂
金戒光明寺の北隣の真如堂も、本堂を豊臣秀頼が再建しています。
再建したのは慶長10年です。
南禅寺
地下鉄蹴上駅の近くに建つ南禅寺は、法堂(はっとう)が慶長11年に豊臣秀頼によって再建されています。
しかし、明治26年(1893年)に火災で焼失したので、現在の法堂は、秀頼が再建したものではありません。
なお、現在の法堂は明治42年に再建されたものです。
ちなみに法堂の正面に建つ三門は、寛永5年(1628年)に藤堂高虎が大坂夏の陣で倒れた家臣の菩提を弔うために建立したものです。
関ヶ原の戦いの直前に豊臣家を見限り徳川家に味方した藤堂高虎が再建した三門が今に残り、秀頼が再建した法堂が焼失したというのは、どこか運命めいたものを感じます。
相国寺
京都市上京区の相国寺に建つ法堂も豊臣秀頼が再建したものです。
再建したのは慶長10年のことで、今ある法堂は、その当時のものです。
現存する最古の法堂として重要文化財に指定されています。
等持院
北野天満宮の西に建つ等持院は、慶長11年に豊臣秀頼が再建しています。
等持院の霊光殿には、歴代の足利将軍の木造が安置されていますが、その中に徳川家康の木造もあります。
豊臣家を滅ぼした家康の木造が、秀頼が再建したお寺にあるというのは、何とも皮肉なことですね。
由岐神社
鞍馬寺の鎮守社である由岐神社の本殿と拝殿は、豊臣秀頼が慶長12年に再建しています。
拝殿は、中央が通路となっている割拝殿という珍しい建物です。
斜面に沿って建つ舞台造は、清水寺と同じ建築技法ですね。
寂光院
平家物語で有名な左京区の大原にある寂光院の本堂は、慶長8年に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したものです。
しかし、現在の本堂は平成12年(2000年)に火災で焼失した後に再建されたものなので、秀頼再建時のものではありません。
寂光院は、平家滅亡後に建礼門院が隠棲したお寺で、境内には、もの悲しい雰囲気が漂っています。
秀頼再建の本堂が焼失したのも、世の無常を感じさせますね。
石清水八幡宮
京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社殿は、慶長11年に豊臣秀頼が造営しています。
秀頼が造営する前は、父親の秀吉が回廊を再興しており、また、その前には秀吉の主君であった織田信長が社殿を修造しています。
その後、寛永8年から11年にかけて徳川家光が大造営をして現在の姿となりました。
他にも豊臣秀頼が再建した寺社はありますが、京都で主だったところは以上のとおりです。
こうやって見ると、どのお寺も神社も、大きなところばかりですね。
これだけの規模の寺社を再建したのですから、相当な費用が掛かったはずです。
大坂の陣が終わった後も大判小判が大坂城から出てきたそうですから、豊臣秀吉が子の秀頼に残した遺産は、庶民では、想像もできない大金だったのでしょうね。